その琥珀いろの手に持っている、黒ずんだ、小さい杯を見た。
思い掛けない事である。
七つの濃い紅の唇は開いたままで詞《ことば》がない。
蝉はじいじいと鳴いている。
良《やや》久しい間、只蝉の声がするばかりであった。
一人の娘がようようの事でこう云った。
「お前さんも飲むの」
声は訝《いぶかり》に少しの嗔《いかり》を帯びていた。
第八の娘は黙って頷《うなず》いた。
今一人の娘がこう云った。
「お前さんの杯は妙な杯ね。一寸《ちょっと》拝見」
声は訝に少しの侮《あなどり》を帯びていた。
第八の娘は黙って、その熔巌の色をした杯を出した。
小さい杯は琥珀いろの手の、腱《けん》ばかりから出来ているような指を離れて、薄紅のむっくりした、一つの手から他の手に渡った。
「まあ、変にくすんだ色だこと」
「これでも瀬戸物でしょうか」
「石じゃあないの」
「火事場の灰の中から拾って来たような物なのね」
「墓の中から掘り出したようだわ」
「墓の中は好かったね」
七つの喉《のど》から銀の鈴を振るような笑声が出た。
第八の娘は両臂《りょうひじ》を自然の重みで垂れて、サントオレアの花のような目は只じいっと空《くう》を見ている。
一人の娘が又こう云った。
「馬鹿に小さいのね」
今一人が云った。
「そうね。こんな物じゃあ飲まれはしないわ」
今一人が云った。
「あたいのを借《か》そうかしら」
愍《あわれみ》の声である。
そして自然の銘のある、耀く銀の、大きな杯を、第八の娘の前に出した。
第八の娘の、今まで結んでいた唇が、この時始て開かれた。
“[#「“」は下付き]MON《モン》. VERRE《ヴェエル》. N'EST《ネエ》. PAS《パア》. GRAND《グラン》. MAIS《メエ》. JE《ジュ》. BOIS《ボア》. DANS《ダン》. MON《モン》. VERRE《ヴェエル》”[#「”」は下付き]
沈んだ、しかも鋭い声であった。
「わたくしの杯は大きくはございません。それでもわたくしはわたくしの杯で戴《いただ》きます」と云ったのである。
七人の娘は可哀らしい、黒い瞳《ひとみ》で顔を見合った。
言語が通ぜないのである。
第八の娘の両臂は自然の重みで垂れている。
言語は通ぜないでも好《い》い。
第八の娘の態度は第八の娘の意志を表白して、誤解すべき余地を留めない。
一人の娘は銀の杯を引っ込めた。
自然の銘のある、耀く銀の、大きな杯を引っ込めた。
今一人の娘は黒い杯を返した。
火の坑から湧き出た熔巌の冷めたような色をした、黒ずんだ、小さい杯を返した。
第八の娘は徐《しず》かに数滴の泉を汲んで、ほのかに赤い唇を潤した。
底本:「山椒大夫・高瀬舟」新潮文庫、新潮社
1968(昭和43)年5月30日発行
1985(昭和60)年6月10日41刷改版
1990(平成2)年5月30日53刷
※底本には、表記の変更に関する以下の注記が見られる。
「本書は旧仮名づかいで書かれていたものを(中略)、現代仮名づかいに改めた。」
加えて、極端な宛て字と思われるもの、代名詞、副詞、接続詞などは、以下のように書き換えたとある。
…か知ら→…かしら 此→かく 彼此→かれこれ …切り→…きり 此→これ 是→これ 流石→さすが 併し→しかし 切角→せっかく 其→その 大ぶ→だいぶ …丈→…だけ 兎角→とにかく 所で→ところで 只管→ひたすら 迄→まで 儘→まま 矢張→やはり
入力:砂場清隆
校正:松永正敏
2000年8月9日公開
2006年5月12日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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