。あの権利がただ今でもありますでしょうか。」
「あるですとも。申立てをしなさるがよい。」役人は極《ごく》優しい声でこう云った。長く浄火の中にいたものには、詞遣《ことばつかい》を丁寧にすることになっているのである。
ツァウォツキイは翌日申立をした。
役人が紙切をくれた。それに「二十四時間賜暇」と書いてあった。
それから押丁がツァツォツキイを穴倉へ連れて往って、胸の小刀を抜いてくれた。
ツァウォツキイは早速出発して、遠い遠い道を歩いた。とうとうノイペスト製糸工場の前に出た。ツォウォツキイは工場で「こちらで働いていました後家のツァウォツキイと申すものは、ただ今どこに住まっていますでしょうか」と問うた。
住まいは分かった。ツァウォツキイはまた歩き出した。
ユリアは労働者の立てて貰う小家の一つに住んでいる。その日は日曜日の午前で天気が好かった。ユリアはやはり昔の色の蒼い、娘らしい顔附をしている。ただ少し年を取っただけである。ツァウォツキイが来た時、ユリアは平屋の窓の傍で縫物をしていた。窓の枠の上には赤い草花が二鉢置いてある。背後《うしろ》には小さい帷《とばり》が垂れてある。
ツァウォツキイはすぐに女房を見附けた。それから戸口の戸を叩いた。
戸が開いて、閾《しきい》の上に小さい娘が出た。年は十六ぐらいである。
ツォウォツキイにはそれが自分の娘だということがすぐ分かった。
「なんの御用ですか」と、娘は厳重な詞附きで問うた。
ツァウォツキイは左の手でよごれた着物の胸を押さえた。小刀の痕を見附けられたくなかったのである。そしてもうこの娘を見たから、このまま帰ってもよいのだと心の中に思った。しかし問われて見れば返事をしないわけには行かない。そこで手を右のポッケットに入れて手品に使う白い球を三つ撮《つま》み出した。「わたしはねえ、いろんな面白い手品が出来るのですが。」ツァウォツキイはこう云って娘の笑う顔を見ようと思ったのである。
しかし娘は笑わなかった。母と同じように堅気で真面目にしている子だからである。
「手品なんざ見なくたってよございます。さっさとお帰りなさい。」こう云って娘は戸を締めようとして、戸の握りを握った。娘の手は白くて、それにしなやかな指が附いている。
この時ツァウォツキイが昔持っていて、浄火の中に十六年いたうちに、ほとんど消滅した、あらゆる悪い性質が忽然今一度かっと燃え立った。人を怨み世を怨む抑鬱不平の念が潮のように涌いて来た。
今娘が戸の握りを握って、永遠に別れて帰ろうとするツァウォツキイの鼻のさきで、戸を締め切ろうとした瞬間に、ツァウォツキイは右の拳を振り上げて、娘の白い、小さい手を打った。
娘はツァウォツキイの顔をじっと見た。そして再び戸の握りを握ってばったり戸を締めた。錠を卸すきしめきが聞えた。
ツァウォツキイはぼんやり戸の外に立っている。刹那に発した怒りは刹那に消え去って、ツァウォツキイはもう我子を打ったことをひどく恥ずかしく思っている。
ツァウォツキイは間の悪げにあたりを見廻した。そして小刀で刺した心の臓の痛み出すのを感じた。
それからツァウォツキイは急いで帰った。どっちへ向いて歩いているか、自分には分からない。しかし一度死んだものは、死に向って帰って行くより外無いのである。
初め旅立をした大きい家に帰り着いた頃は、日が暮れてから大ぶ時間が立っていた。
ここにはもう万事知れている。門番が詰所から挨拶をすると、ツァウォツキイは間が悪いので、頭を下げて通った。それから黙って二階の役人の前へ届けに出た。役人はもう待っていた。押丁が預托品の合札を取り上げて、代りに小刀を渡して、あらあらしく云った。「どうもお前はこの上もない下等な人間だな。たった一人の子を打ちに、ここからわざわざ帰って行く奴があるか。」
ツァウォツキイは黙っていた。それでも押丁がまた小刀を胸に挿してやった時は、溜息を衝いた。
押丁はツァウォツキイの肩を掴んで、鉄の車に載せて、地獄へ下らせた。
ツァウォツキイは薔薇色の火の中から、赤い燃える火の中へ往った。そこで永遠に烹《に》られて、痛がって、吠えているのだろう。
ツァウォツキイの話はこれでしまいだ。
話が代って娑婆の事になる。娘は部屋に帰って母に話した。「おっ母さん。あのぼろぼろになった着物を着た男がまいりましたの。厭な顔をしてわたしを見ましたから、戸を締めようと思いましたの。目が変に光っていて、その目で泣くかと思うと、口では笑っているのですもの。わたしが戸を締めようとすると、わたしの手を打ちましたの。ひどく打ったようでしたが、ただ音がしたばかりでしたの。」
ユリアは何か亡くした物でも捜すように、床の上を見た。そして声を震わせて云った。「そう。それからどうしたの。」
「行ってしまいましたの。でもわたしびっくりしたので、いまだに動悸がしますわ。ひどく打ったのに、痛くもなんともないのですもの。ちょうどそっと手をさすってくれたようでしたわ。真っ赤な、ごつごつした手でしたのに、脣が障ったようでしたわ。そうでなけりゃ心の臓が障ったようでしたわ。」
「わかってよ」と、母は小声で云って、そのまま縫物をしていた。
その後二人はこの時の事を話さずにしまった。二人は長い間生きていた。死ぬるまで生きていた。
お話はこれでおしまいだよ。坊やはいい子だ。ねんねおし。
底本:「諸国物語(上)」ちくま文庫、筑摩書房
1991(平成3)年12月4日第1刷発行
底本の親本:「鴎外全集」岩波書店
1971(昭和46)年11月〜1975(昭和50)年6月
入力:土屋隆
校正:noriko saito
2007年12月27日作成
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