顔を挙げずに、「生れは」と繰り返してすぐに自分で、「不明だな」と云い足して、やっと顔を挙げた。
ツァウォツキイは頷いた。
「何か娑婆で忘れて来た事があるなら、一日だけ暇を貰って帰って来る権利があるのだ。正当に死ねるはずの時が来て死んだものには、そんな権利は無い、もう用事が無いはずだからな。自殺したものとなるととかく何かしら忘れて来るものだ。そのために娑婆のものが迷惑するかも知れない。どうだな。」役人はこわい目をしてツァウォツキイを見た。自殺者を見るには、いつもこんな目附をするのである。
「そうですね。忘れたと云えば、子供の生れるのを待って、見て来ようと思ったのですが、それを忘れて来ました。随分見たかったのですから、惜しい事をしたと思いましたよ。ところがそこに気の附いた時にはもうあとの祭でした。悲しいことは悲しいのですが、わたしだって男一匹だ。ここに来たからには、せっかくの御注意ですが、やっぱりこのまま置いてお貰い申しましょう。」ツァウォツキイはこう云って、身を反らして、傲慢な面附《つらつき》をして役人の方を見た。胸に挿してある小刀と同じように目が光った。
役人は「監房に入れい、情の無い奴だ」と叫んだ。
押丁共がツァウォツキイの肩先を掴まえて引き摩って行った。
ツァウォツキイは胸に小刀を挿していながら、押丁どもを馬鹿にして、「犬め、極卒め、カザアキめ」と罵った。
押丁共は返事の代りに足でツァウォツキイを蹴った。その時胸から小刀が抜けてはならないので、一人の押丁が柄を押さえていた。
二
ツァウォツキイは十六年間浄火の中にいた。浄火と云うものは燃えているものだと云うのは、大の虚報である。浄火は本当の火ではない。極明るい、薔薇色の光線である。人間を長い間その中に据わらせておいて、悪い性質を抜け出させるのである。
ツァウォツキイはだんだん光線に慣れて来て、自分の体の中が次第に浄くなるように感じた。心の臓も浄くなったので、いろんな事を思い出して、そして生れたと云うばかりで、男の子だか女の子だか知らない子を、どうかして見たいものだと思った。
浄火の中を巡って歩いて、何か押丁に対する不平があるなら言えという役人がある。ある時その役人に、ツァウォツキイが言った。「ちょっと伺いますが、娑婆で忘れて来た事をしに行くのに、一日だけお暇が貰えると云うことでしたね。あの権利がただ今でもありますでしょうか。」
「あるですとも。申立てをしなさるがよい。」役人は極《ごく》優しい声でこう云った。長く浄火の中にいたものには、詞遣《ことばつかい》を丁寧にすることになっているのである。
ツァウォツキイは翌日申立をした。
役人が紙切をくれた。それに「二十四時間賜暇」と書いてあった。
それから押丁がツァツォツキイを穴倉へ連れて往って、胸の小刀を抜いてくれた。
ツァウォツキイは早速出発して、遠い遠い道を歩いた。とうとうノイペスト製糸工場の前に出た。ツォウォツキイは工場で「こちらで働いていました後家のツァウォツキイと申すものは、ただ今どこに住まっていますでしょうか」と問うた。
住まいは分かった。ツァウォツキイはまた歩き出した。
ユリアは労働者の立てて貰う小家の一つに住んでいる。その日は日曜日の午前で天気が好かった。ユリアはやはり昔の色の蒼い、娘らしい顔附をしている。ただ少し年を取っただけである。ツァウォツキイが来た時、ユリアは平屋の窓の傍で縫物をしていた。窓の枠の上には赤い草花が二鉢置いてある。背後《うしろ》には小さい帷《とばり》が垂れてある。
ツァウォツキイはすぐに女房を見附けた。それから戸口の戸を叩いた。
戸が開いて、閾《しきい》の上に小さい娘が出た。年は十六ぐらいである。
ツォウォツキイにはそれが自分の娘だということがすぐ分かった。
「なんの御用ですか」と、娘は厳重な詞附きで問うた。
ツァウォツキイは左の手でよごれた着物の胸を押さえた。小刀の痕を見附けられたくなかったのである。そしてもうこの娘を見たから、このまま帰ってもよいのだと心の中に思った。しかし問われて見れば返事をしないわけには行かない。そこで手を右のポッケットに入れて手品に使う白い球を三つ撮《つま》み出した。「わたしはねえ、いろんな面白い手品が出来るのですが。」ツァウォツキイはこう云って娘の笑う顔を見ようと思ったのである。
しかし娘は笑わなかった。母と同じように堅気で真面目にしている子だからである。
「手品なんざ見なくたってよございます。さっさとお帰りなさい。」こう云って娘は戸を締めようとして、戸の握りを握った。娘の手は白くて、それにしなやかな指が附いている。
この時ツァウォツキイが昔持っていて、浄火の中に十六年いたうちに、ほとんど消滅した、あらゆる悪い性質
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