、おれはなんと云う不しあわせものだろう」とこぼしている。
ある時ツァウォツキイの家で、また銭が一文もなくなった。ツァウォツキイはそれを恥ずかしく思った。そしてあの小さい綺麗な女房がまたパンの皮を晩食にするかと思うと、気の毒でならなかった。ところがその心持を女房に知らせたくないので、女房をどなり附けた。
「あたりめえよ。銭がありゃあ皆手めえが無駄遣いをしてしまうのだ。ずべら女めが。」
小さい女房はツァウォツキイの顔をじっと見ていたが、目のうちに涙が涌《わ》いて来た。
ツァウォツキイは拳を振り上げた。「泣きゃあがるとぶち殺すぞ。」
こう云っておいて、ツァウォツキイはひょいと飛び出して、外から戸をばったり締めた。そして家の背後の空地の隅に蹲《うずくま》って、夜どおし泣いた。
色の蒼ざめた、小さい女房は独りで泣くことをも憚《はばか》った。それは亭主に泣いてはならぬと云われたからである。女と云うものは涙をこらえることの出来るものである。
翌日は朝から晩まで、亭主が女房の事を思い、女房が亭主の事を思っている。そのくせ互に一言も物は言わない。
ある日の事である。ちょうど土曜日で雨が降っていた。ツァウォツキイは今一人の破落戸《ごろつき》とヘルミイネンウェヒの裏の溝端《どぶばた》で骨牌《かるた》をしていた。そのうち暗くなって骨牌が見分けられないようになった。それに雨に濡れて骨牌の色刷の絵までがにじんでぼやけて来た。無論相手の破落戸はそれには困らない。どうせ骨牌を裏から見て知っているからである。しかしきょうはもう廃《よ》す気になっていた。
「いや。もうこのくらいで御免を蒙りましょう。」わざと丁寧にこう云って、相手は溝端からちょっと高い街道にあがった。
「そんな法はねえ。そりゃあ卑怯だ。おれはまるで馬鹿にされたようなものだ。銭は手めえが皆取ってしまったじゃないか。もっとやれ。」ツァウォツキイの声は叫ぶようであった。
相手は聴かなかった。雨は降るし、遅くもなっているし、もうどうしても廃すのだ。その代り近いうちに填合《うめあわ》せをしようと云うのである。相手はこんな言いわけをして置いて、弦を離れた矢のように駆け出した。素足で街道のぬかるみを駆けるので、ぴちゃぴちゃ音がした。
その時ツァウォツキイは台所で使う刃物を出した。そしてフランチェンスウェヒを横切って、ウルガルン王国の
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