。一時間半程立つと、又非常に不平らしい顔をして、急いで這入つて来た。
「今市長の処へ行つて、全文を読んで貰つたのです。侮辱なんぞにはなつてゐないと云ふのです。これここに、差支なしと書いて貰つて来たですが。」
「市長が差支なくても、わたくしが差支があるです。」プラトンは強情にかう答へた。編輯長は又原稿を引つ掴んで行つた。それから二十分程立つと、電話がちりん/\と鳴つた。
「どなたですか。」
「知事だがなあ。なぜ排水工事の記事を削除するのか。」
プラトンの顔は真つ赤になつた。そして目をきよろ/\させて、救を求めるやうに、あたりを見廻した。それから間もなく真つ蒼になつた。そして先頃宴会で胴上げをせられた跡でしたやうな手附きをした。
「どうも、その、市の事があまり悪く書き過ぎてありますので。」微かな、不慥かな声である。
「なに。ちつとも聞えない。なーぜーはーいーすーゐーこーうーじーのーきーじーをーつーうーくわーさーせーなーいーかーと云ふのだがなあ。」
「余り悪く、実際より悪く書いてありますから。」
「なに。もつと大きな声で言はんか。」
プラトンは前の詞を今一度繰り返した。そして長官の返事を待つてゐる。受話器を持つてゐる手は震える。鼻の頭には大きな汗の玉が出てゐる。顔の表情には非常な恐怖が見えてゐる。長官はなんと云つたか知らないが、定めてひどく恐れ入らせられたことであらう。受話器を鉤に掛けた時には、常のやうに椅子へ復《かへ》ることが出来ないで、重い荷を負《しよ》はせられて、力の抜けた人のやうに、椅子の上に倒れた。そして目を瞑《ねむ》つて、長い間ぢつとしてゐた。只受話器を持つた左の手がぶる/\慄えてゐる。そして右の目の筋肉が痙攣を起してゐる。
プラトンは水を一ぱい飲んだ。併し全身の疲労と不安とは恢復しない。脈が結代《けつたい》する。外貌は定めて余程あぶなく見えたであらう。その室に這入つて来た下級参事官は、もう此人も長くはない。此位置が明くなと思つたさうである。どうも気分が悪くて事務が執れないと云つて、辻馬車に乗つて帰つた。午食《ひるめし》は食べたくないと云つて食はなかつた。晩方印刷所から校正刷を持つた小僧が来た時には、プラトンは少しも見ずに、どの紙にも認可と書いて渡した。そして夫人にかう云つた。
「グラツシヤアや。どうも己はもう駄目らしいよ。」
電話の鈴《りん》が鳴る度に、プラトンは全身を震はせて、一種の恐怖が熱いものゝやうに心の臓に迫つて来るのを感じた。そして床に起き直つて耳を欹《そばだ》てゝ聞いてゐる。毒々しい声が「なぜ通過させないのだ」「どうして通過させないのだ」と云ふやうに思はれる。それから人事不省になつてゐると、誰やら受話器を持つて来て、無理に耳へ押し当てる。さうすると、こん度は意地の悪い外国通信記者の声がする。これは二三日前に会談をしたのである。それがこんな事を囁く。「どうですか。念の為め今一度承知して置きたいのですがな。どうしてもフランスの記事を一切通過させないと仰やるのですか。」とう/\しまひには、平生仲善しの衛生課長が幻のやうに見えて、顔をくしや/\にして叫んでゐる。
「どうも個人攻撃は行かん。我輩の監督してゐる汚物排除は善く行はれてゐるのに、毎号新聞で悪く言つてある。なぜあんな記事を通過させるのですか。どうも其筋へ言はんでは済まされんです。怪しからん。」
そのうち体の中で不思議な感じがした。何物かがちぎれて、ちく/\引き吊つて、ぶる/\震えてゐる。それから傍の卓の上にあるコツプの水を取つて飲まうとすると、右の手が言ふことを聞かなくなつてゐた。丸で手ではなくて外の物のやうであつた。
プラトンはびつくりして、「グラツシヤア」と一声呼んだ。その声が小さくて、咳枯《しやが》れてゐて、別人の声のやうであつた。夫人は隔たつた室にゐたので、此声が聞えなかつた。小さいニノチユカがゴム毬を抱いて走つて来て、すゞしい声で云つた。
「お父うさん。何御用。お母あさんを呼びませうか。」
夫人が室に這入つた時には、プラトンは泣いてゐた。そして左の手と足とが利かなくなつて、右の目が見えなくなつたのを、容易に打ち明けて言はなかつた。
――――――――――――
夫人の話の済んだ時は二時が鳴つてゐた。
「さあ。もうそろ/\行かなくちやあ。」学士がかう云つた。
「もう目を醒ましてゐるかも知れません。ちよつと見てまゐりませう。」夫人は泣き出しさうな声でかう云つて、病室へ行く。
「どれ。行つて見ませう。」学士は夫人の跡に附いて行く。
病室に這入つて見ると、プラトンはぢつとして、両眼を大きく※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》いて、意味もなく、しかも苦しげに、聖像の方を見詰めてゐた。
底本:「鴎外選集 第15巻」岩波書店
1980(昭和55)年1月22日第1刷発行
初出:「三田文学 二ノ七」
1911(明治44)年7月1日
入力:tatsuki
校正:山根生也
2001年12月15日公開
2006年1月3日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全4ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング