てある倅は、好い成績も得ないが、それだと云つて、進歩の悪い方でもない。足で蹴られる小桶のやうに、下の級から上の級へ押し遣られてゐる。娘ニノチユカは段々大きくなる。カナリア鳥は囀る。イイスタア祭になると、賞与を貰ふ。
春夏秋冬が交る/″\過ぎて、幾年にかなつた。相応な年配になると、病気が出る。痔が起る。頭が禿げる。顔の皺が段々繁くなる。とう/\プラトンは五十八歳になつた。
プラトンは年齢の割には丈夫である。外の人はまだ下級参事官でゐるうちに、標本のやうに干からびたり、考古学の参考品のやうな形になつたりする。プラトンばかりは、奥さんの詞で言へば、「まだ御用に立つ男」である。当人ももう生涯が残り少なくなつて、程なく窮屈な箱に入れて、最終の届先へ遣られようと云ふ立場に到着する筈でありながら、そんな事は思はずに、未来に望を属してゐた。
市へ新しい地方長官が来た。公民の進歩派が多年発行したがつてゐる新聞紙を、これまでの長官は抑へて出させずにゐたのに、新長官は一般の為めに有益だと云つて、出させることにした。多年の希望は実現せられた。市は始て輿論の機関を得た。題号はポシエホンスキイ・ヘロルドと云ふのである。
地方には副長官といふものがある。併し現に此職にゐる人は断えず旅行してゐる。冬はクリムにゐる。夏はカウカズスにゐる。旅行してゐない時はきつと病気である。そこで新聞紙の検閲官の役を、最古参の参事官即ちプラトンが担任することになつた。
さて発行認許がいよ/\下がつたと云ふことになると、市中のものが讙呼《くわんこ》して喜んだ。道に逢ふものが祝賀を言ひ交してゐる。これからは市の生活が一変するだらうと思つたのである。大通りの家に金めつきの看板が掛かつて、それに「ヘロルド編輯局」と書いてある。初号を出す時には、例の如く会堂でお祭をした。新聞に関係のある人達が大勢集つて祈祷をして、長官の万歳を唱へた。編輯長以下新聞社員一同これに和した。プラトンも臨席してゐたが、誰も構つてくれないので、頗る不平であつた。長官が演説をした。華やかな、山のある演説であつたので、一同拍手して、心から敬服した。プラトンも拍手した。併しヂアコヌスの背後《うしろ》で、余り際立たないやうに、謂《い》はば二本指を打ち合せるやうな拍手をしたのである。それは拍手なんぞをして、長官が喜ぶか、おこるか、分からなかつたからである。一体長官が此演説のやうな趣意の事を言つたのを、プラトンはこれまで聞いたことがない。長官はかう云つた。新聞紙は一の権威である。従来他の地方で発行してゐる新聞紙が、社会に利益を与へたことは非常である。先づこんな風に称讃するのを、プラトンは聞いてゐて、なる程「記者」諸君といふものは、そんなにえらいものか、就中《なかんづく》編輯長ミハイル・イワノヰツチユ君はそんな大人物かと、転《うた》た景慕の念に勝《た》へなかつた。さて此ヘロルド新聞も従来他の地方に行はれてゐる、有益なる新聞と比肩するに至らんことを希望すると云ふとき、ふいとプラトンが気が附くと、長官は自分の顔を見てゐたのである。プラトンは慌てゝ、何か自分の服装に間違つた処でもないかと、自分の体を偸《ぬす》み視たが、なんにも間違つてはゐない。そのうち長官の考が分かつた。長官は突然きつとプラトンと顔を見合せて、かう云つた。
「最後に一|言《げん》附け加へて置きたい事がある。兎角我国では、検閲官は新聞紙の敵だと云ふ想像が伝播せられてゐる。諸君。此の如きは時代精神と背馳してゐます。既に過去の観念に属してゐます。総ての進歩的思想の人が、新聞紙の良友であるが如く、検閲官も亦新聞紙の良友である筈であります。わたくしは特にプラトン・アレクセエヰツチユに望んで置きます。君は必ずや事を解する検閲官となられて、世間から圧制家を以て目せられるやうなことの無いことを望んで置きます。」
「決してさやうな事はいたしません。閣下の御趣意通りにいたします。」慌てて、汗を流してゐるプラトンは、震ふ声でかう云ふと同時に突然両眼に涙を浮べた。これは長官の仰せの通りに、新聞紙の良友にならうと、熱心に思つて、何か分からないながら、称讃に価するやうな、或る衝動に、突然襲はれて、その劇烈な感情の発作の結果として、目に涙が湧いたのであつた。
長官は演説の結末にかう云つた。「諸君。どうぞ相互に良友となつて、助け合つて、手を携へて、真理の光明に向つて進まれたいものです。どうぞ極端に奔《はし》られないやうにいたしたいものです。いかなる企業も、極端に奔れば有害になるのでありますが、就中印刷せられたる言論程、極端に奔つて危険を生ずるものはありますまい。」かう云つて置いて、一同に会釈をして、門へ出て、馬車に乗つて行つてしまつた。跡に残つた新聞紙の良友一同は、長官の進歩思想、人道思想に感激して已まなかつた。
それから午餐会があつた。我国では儀式とか祭とか葬《とむらひ》とか云へば、午餐会がなくてはならないからである。会は賑かで、さう/″\しく、愉快であつた。いろ/\の演説があつた。なる丈人道的に立論したいと、互に競ふらしかつた。料理の品数が多くて、果てしがないやうに思はれた。
新に生れた新聞の代表者達が、プラトンを特別に待遇した。プラトンは間もなく、さつき式場で万歳を唱へた時、自分が除けものゝ様に扱はれたことを忘れた。プラトンが席の一方には編輯長ミハイルが据わつてゐる。他の一方には発行を請け負つた書肆の主人がゐる。書肆は旁《かたは》ら立派な果物罐詰類の店を出してゐる、進歩思想の商人である。此二人がプラトンに種々《いろ/\》の葡萄酒や焼酎を勧めて、プラトンは応接に遑《いとま》あらずと云ふ工合である。酒には一々新聞の欄になぞらへた仇名が附けてある。并《なみ》の焼酎を「社説」と云ふ。コニヤツクを「電報」と云ふ。葡萄酒を「外国通信」と云ふなどの類である。
「どうです、プラトン・アレクセエヰツチユさん、最近の通信をもう一杯」と編輯長が侑《すゝ》める。
「もう行けません。目が廻りさうです。」
「そんならこの「雑報」の方にしませう。どうです。これなら、強過ぎはしないでせう。」
大勢の人の声が入り乱れて聞えるので、プラトンは気がぼうつとなつた。目の前には「記者」誰彼の顔が見えたり見えなくなつたりする。プラトンは総ての新聞社員を、通信員、校正掛まで皆記者だと思つてゐる。どれも/\引き合せられはしたが、何の誰やら、どんな為事《しごと》をする人やら、こんがらかつて分からなくなつてゐるのである。
プラトンは一人の男に問うた。「あなたのお受持ちはなんでしたつけね。外国通信でしたね。」
隣の編輯長が代りに答へる。「違ひますよ。隅にゐる先生は社説を受け持つてゐるのです。」
「外国通信の方《はう》はどなたでしたつけね。」
「それ、あそこの椅子に居眠をしてゐるでせう。あの男です」と、編輯長が云つた。
「本当のロシア人ですか」と、プラトンは書肆の耳に口を寄せて聞いた。
「さうですとも。正真正銘のロシア人です。」書肆は笑ひながら答へて、同時に一杯の「近事片々」を侑《すゝ》めた。近事片々とはリキヨオルの事である。
新聞社員は総てプラトンに親しくした。どの人も大ぶ飲んでゐる。外国通信記者がプラトンの傍へ来て腰を掛けて、プラトンの膝を叩いて、かう云つた。
「一体外国には盛んな事がありますね。」
「あなたは外国にお出の事がありましたか。」
「そんな事はどうでも好いです。行つて見るに及ぶもんですか。要するに外国での出来事は模範です。活きた歴史です。」叫ぶやうにかう云つて、人さし指で空中を掻き廻して、気味悪く光る目で、遠い処を見詰めてゐる。歴史その物の蘊奥《うんあう》を見てゞもゐるやうに。
「さうですとも。さうですとも。」プラトンは頻りに合点々々をしてかう云つた。そして非常に愉快に感じた。なんだか自分が長官にでもなつたやうである。新聞社がひどく自分を尊崇してくれるやうである。自分が手を出して補助して遣る、此新聞事業といふものが、ひどく重大なものゝやうに思はれるのである。
演説が頻りにある。その声が次第に大きくなる。文章としての組立が次第にだらしなくなる。しまひにはとう/\意味のない饒舌になる。ナイフやフオオクの皿に当る音が次第に高くなる。瓶の栓を抜く音がする。烟草の烟が客の頭の上に棚引く。
外国通信記者がプラトン・アレクセエヰツチユの為めに頌徳《しようとく》演説をした。一同プラトンの処へ、杯を打ち合せに来た。そして万歳を唱へた。唯社説記者ポトリヤソウスキイ丈は、顔を蹙《しか》めて隅の方に据わつた儘、起つて杯を打ち合せに来ようともしない。その上ちよつと編輯長を睨んで、少し唇を動かした。それから一同の騒ぎが鎮まるのを待つて、起ち上がつて、波を打つた髪を額から背後《うしろ》へ掻き上げて「理想」の詩といふものを歌ひ出した。
「自由の生みし理想なり。
よしや鎖に繋ぐとも、
理想は死なじ、とこしへに。」
社説記者は歌ひ罷んで、「理想は死なない。決して死なないぞ。諸君」と云つて、一人で万歳を叫んだ。
これには誰も異論はない。そこで万歳に和して、又杯を打ち合せた。プラトンの処へも打ち合せに来た。その時社説記者は、プラトンの傍へずつと寄つて来て、顔を蹙めてかう云つた。
「おい。ホレエシヨ君。(シエエクスピイアのハムレツト中の人物。)君は厭に黙り込んでゐるね。君は我輩共と飲んで丈はくれる。だがね、それでは僕は満足しない。一つ演説を願はう。君の信仰箇条を打ち明け給へ。君の Profession de foi をね。」
「何を言へと云ふのです。」
「君のプログラムさ。我輩共の新聞に対して、君はどんな態度を取らうと思つてゐるのだ。僕は頂天立地的の好漢だ。厭に黙つてゐる奴は嫌ひだ。おい。どうだね。」
「遣り給へ。遣り給へ、プラトン・アレクセエヰツチユ君。」
「東西、東西。」
プラトンは酒を一ぱい注がれた杯を持つて起つた。手が震ふので、注いである「外国通信」が翻《こぼ》れた。頭が変になつてゐる。生れてから演説といふものをしたことがないので、なんと云つて好いか分からない。
社説記者はプラトンが、まだみんなが黙らないので、口を開かないのだと思つて、雷のやうな大声で「東西」と叫んだ。
「東西。」
「諸君」と丈は、プラトンが先づ云つて、杯を持つた手を少し前へ出した。「わたくしは」と続けたが、さあ、跡をなんと云つて好いか分からなくなつた。とう/\かう云つた。「わたくしは当新聞の編輯長ミハイル・イワノヰツチユ君に対して、将来永く親交を継続いたさうと存じてをります。随て当新聞に対して、好意を有する積りであります。而《しか》して。えへん。而して。諸君。わたくしは編輯長と当新聞との為めに祝して、この杯を傾けます。」
社説記者は大声で叫んだ。「なんだ。丸で内容が無いぢやないか。おい。そんなら僕の方から問うて遣る。言論は不朽だと詩人が云つてゐるなあ。君はそれを信ずるか、どうだ。それを我輩共に対して明言してくれ給へ。言を左右に托せないで、はつきりと云つてくれ給へ。」
「不朽です、不朽です」と、プラトンは同意して、直ぐに腰を落した。なんだか体が下へ引つ張られるやうで、足が鉛のやうでならなかつたのである。
併し腰を落したかと思ふとたんに、大勢が来て掴まへた。そして胴上げをした。その時のプラトンの心持は、忽然《こつぜん》羽が生えて、空中を飛んでゐるやうであつた。熱した体に、涼しい風が当つて、好い工合に寐入られるやうであつた。
「諸君。先生は御安眠です。」プラトンの体を下に置く時、かう叫んだのは、矢張社説記者ポトリヤソウスキイであつた。
「そんなら校正室のソフアの上に寝かして遣り給へ」と云つたのは、書肆であつた。
プラトンはソフアへ担がれて行きながら、「不朽です、不朽です」と、目を瞑《ねむ》つて囁いでゐたが、ソフアの上に置かれる時、手で遮るやうな挙動をした。
最初は旨く行つた。プラトンは一年三百ルウブルの増俸を貰つて、新聞といふものは結構なも
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