とも判断しにくい。目は青くて、妙な表情をしていた。なんでもずっと遠くにある物を見ているかと思うように、空《くう》を見ていた。悲しげな目というでもない。真面目《まじめ》な、ごく真面目な目で、譬《たと》えば最も静かな、最も神聖な最も世と懸隔している寂しさのようだとでも云いたい目であった。そうだ。あの男は不思議に寂しげな目をしていた。
 下宿の女主人は、上品な老処女である。朝食《あさしょく》に出た時、そのおばさんにエルリングはどこのものかという事を問うた。
「ラアランドのものでございます。どなたでもあの男を見ると不思議がってお聞きになりますよ。本当にあのエルリングは変った男です。」こう云いさして、大層意味ありげに詞《ことば》を切って、外の事を話し出した。なんだかエルリングの事は、食卓なんぞで、笑談《じょうだん》半分には話されないとでも思うらしく見えた。
 食事が済んだ時、それまで公爵夫人ででもあるように、一座の首席を占めていたおばさんが、ただエルリングはもう二十五年ばかりもこの家にいるのだというだけの事を話した。ひどく尊敬しているらしい口調で話して、その外の事は言わずにしまった。丁度親友の内情を人に打ち明けたくないのと、同じような関係らしく見えた。
 そこで己は外《ほか》の方角から、エルリングの事を探知しようとした。
 己はその後《ご》中庭や畠《はた》で、エルリングが色々の為事をするのを見た。薪《まき》を割っている事もある。花壇を掘り返している事もある。桜ん坊を摘んでいる事もある。一山もある、濡《ぬ》れた洗濯物を車に積んで干場《ほしば》へ運んで行《ゆ》く事もある。何羽いるか知れない程の鶏《にわとり》の世話をしている事もある。古びた自転車に乗って、郵便局から郵便物を受け取って帰る事もある。
 エルリングの体は筋肉が善く発達している。その幅の広い両肩の上には、哲学者のような頭が乗っている。たっぷりある、半明色の髪に少し白髪《しらが》が交って、波を打って、立派な額を囲んでいる。鼻は立派で、大きくて、しかも優しく、鼻梁《びりょう》が軽く鷲《わし》の嘴《くちばし》のように中隆《なかだか》に曲っている。髭《ひげ》は無い。口は唇が狭く、渋い表情をしているが、それでも冷酷なようには見えない。歯は白く光っている。
 己の鑑定では五十歳位に見える。
 下宿には大きい庭があって、それがすぐに海に接している。カツテガツトの波が岸を打っている。そこを散歩して、己は小さい丘の上に、樅《もみ》の木で囲まれた低い小屋のあるのを発見した。木立が、何か秘密を掩《おお》い蔽《かく》すような工合《ぐあい》に小屋に迫っている。木の枝を押し分けると、赤い窓帷《カアテン》を掛けた窓硝子《まどがらす》が見える。
 家の棟に烏《からす》が一羽止まっている。馴《な》らしてあるものと見えて、その炭のような目で己をじっと見ている。低い戸の側《そば》に、沢《つや》の好《い》い、黒い大きい、猫が蹲《うづくま》って、日向《ひなた》を見詰めていて、己が側へ寄っても知らぬ顔をしている。
 そこへ弦《つる》のある籐《と》の籠《かご》にあかすぐりの実を入れて手に持った女中が通り掛かったので、それにこの家は誰が住まっているのだと問うた。
「エルリングさんの内です」と、女中が云った。さも尊敬しているらしい調子であった。
 エルリングに出逢《であ》って、話をし掛けた事は度々あったが、いつも何か邪魔が出来て会話を中止しなくてはならなかった。
 ある晩波の荒れている海の上に、ちぎれちぎれの雲が横《よこた》わっていて、その背後に日が沈み掛かっていた。如何《いか》にも壮大な、ベエトホオフェンの音楽のような景色である。それを見ようと思って、己は海水浴場に行《ゆ》く狭い道へ出掛けた。ふと槌《つち》の音が聞えた。その方を見ると、浴客が海へ下りて行《ゆ》く階段を、エルリングが修覆している。
 己が会釈をすると、エルリングは鳥打帽の庇《ひさし》に手を掛けたが、直《す》ぐそのまま為事を続けている。暫《しばら》く立って見ている内に、階段は立派に直った。
「お前さんも海水浴をするかね」と、己が問うた。
「ええ。毎晩いたします。」
「泳げるかね。」
「大好きです。」
 なぜ夜海水浴をするのか問おうかと思ったが止めた。多分昼間は隙《すき》がないのだろう。
「冬になるとお前さんどこへ行くかね。コッペンハアゲンだろうね。」
「いいえ。ここにいます。」
「ここにいるのだって。この別荘造りの下宿にかね。」
「ええ。」
「お前さんの外にも、冬になってあの家にいる人があるかね。」
「わたくしの外には誰もいません。」
 己はぞっとしてエルリングの顔を見た。「溜《た》まるまいじゃないか。冬寒くなってから、こんな所にたった一人でいては。」
 エルリング
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