、別な夢の生活を持っています。無条件にその夢に身を任せている女もあり、良心と戦いながらその夢を見ている女もありますが、どちらもこの夢の恋は platonique なのでございます。この platonisme が夢の美しいところで、それが無かったら、そう云う女は重婚をいたしているような心持がいたすでしょう。
これだけの説明をいたすのが、わたくしには一通りの骨折ではございませんでした。しかし聡明な、敏捷《びんしょう》な思索家でいらっしゃるあなたには、わたくしの思っている事は、造做《ぞうさ》もなくお分りになりましょう。
あなたがまだ高等学校をお出になったばかりの青年で、わたくしの所へおいでになったころ、わたくしはその日の午後を楽しみにいたしていました。しかしもしあの時のあなたが、いつかお書きになった「若い盗人」と云う小説の中《うち》の青年のような早熟の人でおいでになったら、わたくしはきっとあなたのおいでをお断り申しただろうと存じます。
あなたとわたくしとの中は、夢より外に一歩も踏み出さない中だと云うことが、あのころわたくしには分かっていました。あなたを夫に持つことは不可能だということが分かっていました。事によったら、あなたを夫に持ちたくは無かったかも知れません。それですからわたくしは二度目の夫を持ちましても、あなたの記念を涜《けが》したのではございません。二度目の夫を持ってからも、わたくしはやはり前の夢の続きを見ていました。
この夢があるので、わたくしは多少良心に責められたこともあります。しかしわたくしはあなたに誓います。わたくしはあなたが田舎の夫が妻に要求するような要求をなさることがあろうとは、一度も思ったことはありません。それは田舎の夫が妻に要求する主な勤めで、事によったら世間のあらゆる夫が妻に要求する主な勤めかも知れません。それですからわたくしはあなたがパリイでどんな女とどんな事をなさろうとも、嫉妬を感じたことはございません。それはどんな貴婦人でも、どんな賤しい女でも、わたくしの夢までを奪ってしまうことは出来ないからでございます。それにわたくしには可笑しい自負心がございますの。それはわたくしが十六年前にあなたにいたしたような、はにかみながらのキスに籠もっているほどの物を、どの女もあなたに捧げることは出来まいと存じているのでございます。
わたくしはこんな夢を見て暮らしているうちに、ある日わたくしの夫婦生活の平和が瓦解《がかい》してしまいました。夫が不実になったと云うことは、田舎の女のためには夫婦の破滅でございます。夫婦と恋とを引放して考えることの出来ない女のためには、そう思われるのでございます。
楫《かじ》をなくした舟のように、わたくしは途方にくれました。どちらへ向いて見ても活路を見出すことが出来ません。わたくしはとうとう夢に向って走りました。ちょうど生埋めにせられた人が光明を求め空気を求めると同じ事でございます。
わたくしは突然今の夫を棄てて、パリイへ出て、昔あなたのおいでになる日の午後を待っていたように、パリイであなたが折々おいで下さるのを楽しみにして暮らそうと思い立ちました。どうぞわたくしを気が違ったとお思いなさらないで下さいまし。田舎の女をわたくしの境界に置きましたら、随分わたくしと同じ思立《おもいたち》をいたす女があろうかと存じます。これはただ思立つだけの事でございます。それを実行いたすとなると、どんな物になるだろうと云うことは、ロメエヌ町の家であなたを隙見をいたすまで、わたくしには分からなかったのでございます。
隙見をいたした時の最初の感じは失望でございました。Sport で鍛錬した、強壮なお体で、どんな女でも来てみろと云うお心持で、長椅子に掛けていらっしゃったあなたに失望いたしたので、昔の世慣れない姿勢の悪い青年でいらっしゃらないのに当惑いたしたのでございます。それで客間に這入り兼ねていました。
その時あなたは起ち上がって戸の傍までおいでなさいました。わたくしはあなたを遺憾なくはっきり拝することが出来ました。わたくしは胸が裂けるように動悸がいたしました。そしてあなたが好きになりました。やはり十六年前の青年よりは今のあなたの方が好きだと存じました。
あなたのような種類の人、あなたのように智慧がおありになり、しっかりしておいでになって、そして様子のいいお方、そう云う人にイソダンでめったに出逢うことのないのは当り前でございます。わたくしはすぐにそう思いました。こう云う人の前に出たら、わたくしは意志も何もない物になってしまいましょう。その人が気まぐれにどうでもすることの出来るおもちゃになってしまいましょう。
そう云う運命に陥いるだろうと思ったので、わたくしは烈しい恐怖に襲われました。わたくしの心の臓は痙攣《けいれん》したように縮みました。ちょうどもうあなたの丈夫な、白いお手に握られてしまったようでございました。あの時の苦しさを思えば、今の夫に不実をせられたと思った時の苦しさはなんでもございません。わたくしの美しい夢はこのとき消えてしまいました。
わたくしはどうしてもあなたにお目に掛かるまいと決心いたしました。それと同時にわたくしは思いました。わたくしがあなたを思うほど、あなたがわたくしを思って下さるまでは、わたくしの心は永久に落ち着くことは出来まいと云うのでございます。わたくしを愛して下さることがあなたに出来るだろうかと云うのでございます。
最初にあなたに上げた手紙に書き添えました事は嘘ではございません。わたくしは十六年前と今と格別変ってはいません。道を歩けば男の附いて来ることは昔の通りでございます。イソダンでそうだと申すのではございません。パリイで歩いても同じ事でございます。しかしあなたのためには、田舎女のわたくしがなんでございましょう。ほんのちょいとの間の気まぐれで、おもちゃにして下さるかも知れませんが、深い恋をして下さろうとは思われません。それがあの時わたくしの胸に電光のように徹しました。自分の弱点を恥じる心が、嫌われるだろうと思う疑懼《ぎく》に交って、とうとうわたくしをあの場から逃げさせてしまいました。わたくしは自分の恐ろしい運命を避けよう、どうしてもあなたにお目に掛かるまいと決心いたしました。わたくしは帽子を取って被って、女中にお断りを申上げるように言い附けて置いて、あの家に火事でも起ったように跡をも見ずに逃げました。
わたくしはきのうからイソダンに帰っています。主人は今晩帰るはずになっています。わたくしはもう夫に怨を申すことは出来ません。それは自分がほとんど同じような不実をいたしたからでございます。
わたくしはこれまでのような、単調な生活を続けてまいりましょう。田舎の女にはそれが当り前なのでございます。ちらと拝しました「先生」のお姿はもう次第にぼやけてまいります。そして昔親しかった青年の姿が復活してまいります。これからはまたあの十七歳の青年の人を夢に見て、それを楽しみにいたしていましょう。
ピエエルさん。さようなら。もうまたとお目に掛かることはございません。どうぞ悪く思召さないでわたくしの事を御記憶なすって下さいまし。わたくしはあなたに無窮の愛を捧げます。
どうぞもうお手紙も下さいますな。世に忘れられた片蔭に、小さい田舎女は、ただあなたお一人をたよりにして生活していましょう。
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ピエエル・オオビュルナンとマドレエヌ・ジネストとは再会せずにしまった。この詭遇《きぐう》の影に傷けられた、大家先生の自負心の創痕はいつか癒えて、稀にではあるが先生が尊重の情をもって少時の女友達の上を回想することもある。
鎖鑰《さやく》を下した先生の卓の抽出しの中で、二通の手紙が次第に黄ばんで行く。それを包んだ紙には「田舎」と題してある。
底本:「諸国物語(上)」ちくま文庫、筑摩書房
1991(平成3)年12月4日第1刷発行
底本の親本:「鴎外全集」岩波書店
1971(昭和46)年11月〜1975(昭和50)年6月
入力:土屋隆
校正:noriko saito
2007年12月27日作成
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