冷水浴をして sport に熱中する。昔は Monsieur de Voltaire, Monsieur de Buffon だなんと云って、ロオマンチック派の文士が冷かしたものだが、ピエエルなんぞはたしかにあのたちの貴族的文士の再来である。
 オオビュルナン先生は最後に書いた原稿紙三枚を読み返して見て、あちこちに訂正を加え、ある詞《ことば》やある句を筆太に塗沫《とまつ》した。先生の書いているのは、新脚本では無い。自家の全集の序である。これは少々難物だ。
 余計な謙遜はしたくない。骨を折って自家の占め得た現代文壇における地位だけは、婉曲《えんきょく》にほのめかして置きたい。ただしほのめかすだけである。傲慢に見えてはならない。
 ピエエル・オオビュルナンは満足らしい気色で筆を擱《お》いた。ぎごちなくなった指を伸ばして、出そうになった欠《あくび》を噛み潰した。そしてやおらその手を銀盤の方へ差し伸べた。盤上には数通の書簡がおとなしく待っていたのである。
 ピエエルは郵便を選《え》り分けた。そしてイソダン郵便局の消印のある一通を忙《せ》わしく選り出して別にした。しかしすぐに開けて読もうともしな
前へ 次へ
全38ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング