と可笑しがるやうな皺が出来たのです。わたしは好い徴候だと思ひました。兎に角地中海の波に全く沈没してゐるわけでもないことが分かつたからですね。そのうち二人が礼をして往つてしまひました。」
兄は笑つた。
「まあ、そんなに急いで笑はないで下さい。まだ話はおしまひではありませんからね。わたしは其日に帰る時、心に誓つたのです。三十日間パンと水とで生きてゐても好いから、どうしてもあの唇にキスをしなくてはならないと誓つたのです。」
「併し。」
「まあ、黙つて聞いて下さい。話は是からです。なんでも三四日立つてからの午頃でした。わたしはいつものベンチに掛けて、お城の方角を見詰めてゐました。わたしは其日に二人がきつと来ると云ふことを知つてゐました。来たらきつとキスをすると云ふ事も知つてゐました。雨が少し降つて来たので、わたしは外套の襟を立てて、帽子を目深に被つてゐました。なんでもアメリカの森の中でジヤグアルが物を覗《ねら》つてゐるのはこんな按排だらうと、わたしは思ひました。その時刻には散歩に出る人なんぞは殆無いのです。わたしは震えながら腰を掛けてゐました。帰られる身の上なら帰りたい位でした。」
「帰れば好かつたのだ。」
「でも帰れば又初から遣り直すことになつたのです。」
「併し。」
「まあ、聞いて下さい。突然わたしはぎくりとしました。曲角に黒い姿が二つ見えたのです。一人が蝙蝠傘を斜に連の人の前に差し掛けてゐます。傘を持つてゐたのは、年を取つた尼さんでした。二人は真つ直にわたしの方へ向いて来ます。わたしは木の背後《うしろ》にでも躱《かく》れてゐて、そこから飛び付かうか、木の枝にでも昇つてゐて、そこから飛び降りようかと思ひながら、其儘ぢつとしてすわつてゐました。すると例の人の顔が段々近くなつて来ます。柔い、むく毛の生えた頬や、包ましげな目が見えます。それから口が見えます。しまひには只唇ばかりが見えます。其唇は丁度アルバトロス鳥を引き寄せる燈明台のやうなものです。そのうちとうとうわたしのまん前に来ました。わたしはゆつくり立ち上がりました。そして。」
「こら」と云つて、兄は己の臂を掴んだ。併し己はそれに構はずに、昔の記念のために熱しつつ語り続けた。
「そしてわたしは大股に年を取つた尼さんの前を通り過ぎて、若い尼さんの頭を両手の間に挾みました。わたしは今もその黒い面紗《めんさ》を押さへたわたしの指と、びつくりした、大きい、青い目とを見るやうです。わたしは自分の口を尼さんの口の所へ、俯向くやうにして持つて往つて、キスをしました。キスをしました。気の狂つたやうにキスをしました。尼さんはとうとうわたしに抱かれてしまひました。わたしはそれをベンチへ抱へて往つて、傍に掛けさせて、いつまでもキスをしました。兄いさん。とうとう尼さんが返報に向うからもわたしにキスをしたのです。尼さんの熱い薔薇の唇がわたしのを捜すのですね。あんなキスはわたし跡にも先にも受けたことがありません。わたしは邪魔がないと、其儘夜まで掛けてゐたのです。所が生憎。」
「誰か来たのかい。」
「いいえ。さうぢやないのですが、何遍となく同じ詞を、わたしの耳の傍で繰り返すものがあつたのです。わたしは頭を挙げて其方を見ました。見れば年を取つた方の尼さんが、丁度ソドムでのロトの妻のやうに、振り上げた手に蝙蝠傘を持つて、凝り固まつたやうに立つてゐて、しやがれた声で繰り返すのです。Mon dieu, mon dieu, que faites―vous donc, monsieur? que faites, faites, fai―aites―vous donc? わたしは又自分の抱いてゐる女を見ました。蒼い顔と瞑《つぶ》つた目とを見ました。併し妙な事にはキスをしない前程美しくはありませんでした。それから、えゝ、それでおしまひでした。わたしは逃げ出しました。」
兄も己も大ぶ竪町を通り越してゐた。そこで黙つて引き返して並んで歩いた。兄が今口を開いたら、其口からは己を詛《のろ》ふ詞が出るだらうと、己は思つてゐた。
兄は突然顔を挙げて、夢を見るやうな目附で海の上を見ながら、己に問うた。
「本当に向うからキスをしたのかい。」
己は此詞に力を得て微笑《ほゝゑ》んだ。そして兄と一しよに竪町の家に往て、ラゴプス鳥を注文した。
底本:「鴎外選集 第14巻」岩波書店
1979(昭和54)年12月19日第1刷発行
初出:「我等 一ノ一」
1914(大正3)年1月1日
原題:Dat Fleesch.
原作者:Gustav Wied, 1858−1914
翻訳原本:G. Wied: Lustige Geschichten. Deutsch von Ida Anders. Stuttgart, Axel Juncker Verlag. 1907.
入力:tatsuki
校正:はやしだかずこ
2000年6月8日公開
2006年4月25修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング