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私は無妻で小倉へ往って、妻を連れて東京へ帰った。しかし私に附いて来た人は妻ばかりではなくて、今一人すぐに跡から来た人がある。それはまだ年の若い僧侶《そうりょ》で、私の内では安国寺《あんこくじ》さんと呼んでいた。
安国寺さんは、私が小倉で京町に引き越した頃から、毎日私の所へ来ることになった。私が役所から帰って見ると、きっと安国寺さんが来て待っていて、夕食の時までいる。この間に私は安国寺さんにドイツ文の哲学入門の訳読をして上げる。安国寺さんは又私に唯識論の講義をしてくれるのである。安国寺さんを送り出してから、私は夕食をして馬借町の宣教師の所へフランス語を習いに往った。
そんな風であったから、私が小倉を立つ時、停車場に送ってくれた同僚やら知人やらは非常に多かったが、その中で一番別を惜んだものは安国寺さんであった。「君がいなくなっては、安国寺さんにお気の毒だね」と、知人は揶揄《からかい》半分に私に言った。
果して安国寺さんは私との交際を絶つに忍びないので、自分の住職をしていた寺を人に譲って、飄然《ひょうぜん》と小倉を去った。そして東京で私の住まう団子坂上の家の向いに来て下宿した。素《も》と私の家の向いは崖《がけ》で、根津《ねづ》へ続く低地に接しているので、その崖の上には世に謂《い》う猫の額程の平地しか無かった。そこに、根津が遊郭《ゆうかく》であった時代に、八幡楼《やはたろう》の隠居のいる小さい寮があった。後にそれを買い潰《つぶ》して、崖の下に長い柱を立てて、私の家と軒が相対するような二階家の広いのを建てたものがある。眺望の好かった私の家は、その二階家が出来たために、陰気な住いになった。安国寺さんの来たのは、この二階造の下宿屋である。
しかし東京に帰った私の生活は、小倉にいた時とは違って忙しい。折角来た安国寺さんは前のように私と知識の交換をすることが出来ない。それを残念に思っていると、丁度そこへF君が来て下宿した。東京で暮そうと思って、山口の地位を棄てて来たと云うことであった。
そこで安国寺さんは哲学入門の訳読を、私にして貰う代りに、F君にして貰おうとした。然るに私とF君とは外国語の扱方が違う。私は口語でも文語でも、全体として扱う。F君はそれを一々語格上から分析せずには置かない。私は Koeber さんの哲学入門を開いて、初のペエジから字を逐《お》って訳して聞せた。しかも勉《つと》めて仏経の語を用いて訳するようにした。唯識を自在に講釈するだけの力のある安国寺さんだから、それを丁度尋常の人が Fibel や読本を解するように解した。F君はこの流義を踏襲することを肯《がえん》ぜずに、安国寺さんに語格から教え込もうとした。安国寺さんは全く違った方面の労力をしなくてはならぬので、ひどく苦しんだ。
暫く立って、F君は第一高等学校に聘せられたが、矢張同じ下宿にいて、そこから程近い学校に通うので、君と安国寺さんとの関係は故《もと》のままであった。
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私が東京に帰ってから、桜が咲き桜が散って、気候は暖いと云う間もなく暑くなった。二階に登って向いの下宿屋を見れば、そこでも二階の戸を開け放っている。間数が多いので、F君や安国寺さんのいる部屋は見えない。見えるのは若い女学生のいる部屋である。
欄干に赤い襟裏《えりうら》の附いた著物《きもの》や葡萄茶《えびちゃ》の袴《はかま》が曝《さら》してあることがある。赤い袖の肌襦袢《はだじゅばん》がしどけなく投げ掛けてあることもある。この衣類の主《ぬし》が夕方には、はでな湯帷子《ゆかた》を著て、縁端《えんばな》で凉んでいる。外から帰って著物を脱ぎ更《か》えるのを不意に見て、こっちで顔を背《そむ》けることもある。私はいつとなくこの女の顔を見覚えたが、名を聞く折もなく、どこの学校に通うと云うことを知る縁もなかった。女は美しくもなく、醜くもなく、何一つ際立って人の目を惹《ひ》くことのない人であった。
向いの家の下宿人は度々入り替ると見えて、見知った人がいなくなり、新しい人が見えるのに気の附くことがあった。しかしF君と安国寺さんとは外へ遷《うつ》らずにいた。私の家の二階から見える女学生も遷らずにいた。
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一年余立って、私が東京へ帰ってからの二度目の夏になった。或る日安国寺さんが来て、暑中に帰省して来ると云った。安国寺さんは小倉の寺を人に譲ったが、九州鉄道の豊州《ほうしゅう》線の或る小さい駅に俗縁の家がある。それを見舞いに往くと云うことであった。
安国寺さんの立った跡で、私の内のものが近所の噂《うわさ》を聞いて来た。それは坊さんはF君の使に四国へ往ったので、九州へはその序《ついで》に帰るのだと云うことであった。使に往った先は、向いに下宿している女学生の親元である。F君は女学生と秘密に好い中になっていたが、とうとう人に隠されぬ状況になったので、正式に結婚しようとした。それを四国の親元で承引しない。そこで親達を説き勧めにF君が安国寺さんを遣《や》ったと云うのである。
私はそれを聞いて、「安国寺さんを縁談の使者に立てたとすると、F君はお大名だな」と云った。無遠慮な Egoist たるF君と、学徳があって世情に疎《うと》く、赤子の心を持っている安国寺さんとの間でなくては、そう云うことは成り立たぬと思ったのである。
安国寺さんの誠は田舎の強情な親達を感動させて、女学生はF君の妻になることが出来た。二人は小石川に家を持った。
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又一年立った。私はロシアとの戦争が起ったので、戦地へ出発した。F君は新橋の停車場まで送って来て、私にドイツ文で書いたロシア語の文法書を贈った。この本と南江堂で買ったロシア、ドイツの対訳辞書とがあったので、私は満州にいる間、少なからぬ便利を感じた。
私が満州で受け取った手紙のうちに、安国寺さんの手紙があった。その中《うち》に重い病気のためにドイツ語の研究を思い止まって、房州辺の海岸へ転地療養に往くと云うことが書いてあった。私はすぐに返事を遣って慰めた。これは私の手紙としては、最《もっとも》長い手紙で、世間で不治の病と云うものが必ず不治だと思ってはならぬ、安心を得ようと志すものは、病のために屈してはならぬと云うことを、譬喩談《ひゆだん》のように書いたものであった。私は安国寺さんが語学のために甚だしく苦しんで、その病を惹き起したのではないかと疑った。どんな複雑な論理をも容易《たやす》く辿《たど》って行く人が、却って器械的に諳《そら》んじなくてはならぬ語格の規則に悩まされたのは、想像しても気の毒だと、私はつくづく思った。
満州で年を越して私が凱旋《がいせん》した時には、安国寺さんはもう九州に帰っていた。小倉に近い山の中の寺で、住職をすることになったのである。
F君は相変らず小石川に住んで、第一高等学校に勤めていた。君と私との忙しい生活は、互に訪問することを許さぬので、私は時々|巣鴨《すがも》三田線の電車の中で、君と語を交えるに過ぎなかった。
それから四五年の後に私は突然F君の訃音《ふいん》に接した。咽頭《いんとう》の癌腫《がんしゅ》のために急に亡《な》くなったと云うことである。
底本:「新潮日本文学1 森鴎外集」新潮社
1971(昭和46)年8月12日発行
入力:柿澤早苗
校正:湯地光弘
1999年10月16日公開
2006年5月9日修正
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