った先は、向いに下宿している女学生の親元である。F君は女学生と秘密に好い中になっていたが、とうとう人に隠されぬ状況になったので、正式に結婚しようとした。それを四国の親元で承引しない。そこで親達を説き勧めにF君が安国寺さんを遣《や》ったと云うのである。
私はそれを聞いて、「安国寺さんを縁談の使者に立てたとすると、F君はお大名だな」と云った。無遠慮な Egoist たるF君と、学徳があって世情に疎《うと》く、赤子の心を持っている安国寺さんとの間でなくては、そう云うことは成り立たぬと思ったのである。
安国寺さんの誠は田舎の強情な親達を感動させて、女学生はF君の妻になることが出来た。二人は小石川に家を持った。
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又一年立った。私はロシアとの戦争が起ったので、戦地へ出発した。F君は新橋の停車場まで送って来て、私にドイツ文で書いたロシア語の文法書を贈った。この本と南江堂で買ったロシア、ドイツの対訳辞書とがあったので、私は満州にいる間、少なからぬ便利を感じた。
私が満州で受け取った手紙のうちに、安国寺さんの手紙があった。その中《うち》に重い病気のためにドイツ語の研究を思い止まって、房州辺の海岸へ転地療養に往くと云うことが書いてあった。私はすぐに返事を遣って慰めた。これは私の手紙としては、最《もっとも》長い手紙で、世間で不治の病と云うものが必ず不治だと思ってはならぬ、安心を得ようと志すものは、病のために屈してはならぬと云うことを、譬喩談《ひゆだん》のように書いたものであった。私は安国寺さんが語学のために甚だしく苦しんで、その病を惹き起したのではないかと疑った。どんな複雑な論理をも容易《たやす》く辿《たど》って行く人が、却って器械的に諳《そら》んじなくてはならぬ語格の規則に悩まされたのは、想像しても気の毒だと、私はつくづく思った。
満州で年を越して私が凱旋《がいせん》した時には、安国寺さんはもう九州に帰っていた。小倉に近い山の中の寺で、住職をすることになったのである。
F君は相変らず小石川に住んで、第一高等学校に勤めていた。君と私との忙しい生活は、互に訪問することを許さぬので、私は時々|巣鴨《すがも》三田線の電車の中で、君と語を交えるに過ぎなかった。
それから四五年の後に私は突然F君の訃音《ふいん》に接した。咽頭《いんとう》の癌腫《がんしゅ》のために急に亡《な》くなったと云うことである。
底本:「新潮日本文学1 森鴎外集」新潮社
1971(昭和46)年8月12日発行
入力:柿澤早苗
校正:湯地光弘
1999年10月16日公開
2006年5月9日修正
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