私は借家に帰ると、古袷《ふるあわせ》を一枚女中に持たせて、F君の所へ遣った。五十日分の宿料を払って、会話辞書を買っては、君の貰った月給は皆無くなって、煙草もやたらには呑まれぬわけだと思ったからである。
――――――――――――
私はF君の徼幸者の一面があると思っていたので、最初から君と交わるに、多少の距離を保留して置くようにした。しかし相識になってから時が立つに従って、この距離が段々縮まって来た。
それには衣食に事を闕《か》いても書物を買うと云う君の学問好を認めた為めもあるが、決してそればかりではない。ドイツ語に於ける君の造詣《ぞうけい》の深いことは、初対面の日にもう知れていた。そうして見れば、君が学問好だと云うことは、問わずして明かなわけである。
F君と私との距離を縮めた、主な原因は私が君の「童貞」を発見した処に存ずる。君が殆ど異性に関する知識を有せぬことを発見した処に存ずる。これは或は私の見錯《みあやま》りであったかも知れない。しかし私は今でも君に欺かれたとは信ぜない。
私はF君に秘密が無かったとは思わない。又君が※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]《うそ》を衝かなかったとは思わない。しかし君は故《ことさ》らに構えて※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]を衝く人ではなかったらしい。※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]のために詞《ことば》を設ける程の面倒をせぬ人であったらしい。私と対座して構えて※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]を衝いて見るが好い。私はすぐに強烈な反感を起す。これは私の本能である。私はこの本能があるので、余り多く人に欺かれない。多数の人を陥れた詐偽師を、私が一見して看破したことは度々ある。
これに反して義務心の闕けた人、amoral な人、世間で当にならぬと云う人でも、私と対座して赤裸々に意志を発表すれば、私は愉快を感ずる。私は年久しくそう云う人と相忤《あいさから》わずに往来したことがある。
さて私は前にも云った通りに、最初から徼幸者を以てF君を待った。しかし君の対話は少しも私に反感を起させたことが無い。君の言語は衝動的である。君の胸臆は明白に私の前に展開せられて時としては無遠慮を極めることがある。Verblueffend に真実を説くことがある。私はいつもそれを甘んじ受けて、却って面白く感じた。
殆ど毎日逢って、時としては終日一しょにいることさえあるので、F君と私との話はドイツ語の事や哲学の事には限らぬようになった。或る日私は君にこう云う事を言った。私はこの土地で役をしていて多くの人に知られている。その人達がもうF君をも知って来た。そして二人を兄弟だと云うそうである。本通の雑貨店徳見に往ったら、「弟御さんも店へお出《いで》になりました」と、主人が云った。誰の事かと思って問えば、君の事である。同国ではあるが、親類ではないと、私は答えた。主人は不審に思うらしい様子で、「へえ、あんなに好く肖《に》てお出になって」と云った。私は君に似ているだろうか、君はどう思うと云って、F君を見た。
F君がその時、それは他人の空似と云うことが随分有るものと見えると云って、こういう話をした。君が尾の道に泊った晩の事である。中庭を囲んだ二階の一方にある座敷に、君は入れられた。すると二階の向側に泊った客が、芸者を大勢呼んで大騒をしていた。君は無聊《ぶりょう》に堪えぬので、廊下に出て向うを見る。向うでも芸者が一人出て、欄干に手を掛けてこっちを見る。その芸者が連《つれ》の芸者を呼び出す。二人で何かささやいてこっちを見る。こっちで見るのは好いが、向うから見られるのは厭《いや》だと思って、君は部屋に這入《はい》った。向側の騒ぎは夜遅くなるまで続いた。君は床に這入って、三味線《さみせん》の声をやかましく思いつつ寐入《ねい》った。暫く寐ているうちに、部屋に人が来たように思って目を醒《さ》ました。見れば芸者が来て枕元にすわっている。君は驚いて起き上がった。そして「どうしたのだ」と問うと、「少し伺いたい事がございます」と云う。君は立って夜具を畳んだ。それから芸者に用事を尋ねた。芸者の口上はこうであった。自分は向側の座敷に、大勢来て泊っている芸者の中《うち》の一人である。この土地の生れで、兄が一人あった。それが家出をして行方が知れずにいる。然《しか》るに先刻向側からあなたを見て、すぐにその兄だと思った。分れてからだいぶ年が立ったが、毎日逢いたい逢いたいと思うので、こっちでは忘れずにいる。あなたを見た時、すぐに馳けて来ようかと思ったが、人目があるのでこらえていた。若し人違《ひとちがえ》であったら、許して貰いたい。恋しい兄だという思う人を見たのに、逢って物を言わずに別れ
前へ
次へ
全7ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング