のだという感じは所詮《しょせん》起らなかった。
 道具を片附けてしまって起って行くのを、主人は見送って、覚えず微笑した。そして自分の冷澹《れいたん》なのを、やや訝《いぶか》るような心持になった。
 この心持が妙に反抗的に、白分のどこかに異性に対する感じが潜んでいはしないかと捜すような心持を呼び起した。
 大野の想像には、小倉で戦死者のために法会をした時の事が浮ぶ。本願寺の御連枝《ごれんし》が来られたので、式場の天幕の周囲《まわり》には、老若男女がぎしぎしと詰め掛けていた。大野が来賓席の椅子《いす》に掛けていると、段々見物人が押して来て、大野の膝《ひざ》の間の処へ、島田に結《い》った百姓の娘がしゃがんだ。お白いと髪の油との※[#「均−土」、第3水準1−14−75]《におい》がする。途中まで聞いていた誰やらの演説が、ただ雑音のように耳に聞えて、この島田に掛けた緋鹿子《ひがのこ》を見る視官と、この髪や肌から発散する※[#「均−土」、第3水準1−14−75]を嗅ぐ嗅覚《きゅうかく》とに、暫くの間自分の心が全く奪われていたのである。この一|刹那《せつな》には大野も慥《たし》かに官能の奴隷であった。大野はその時の事を思い出して、また覚えず微笑した。
 大野は今年四十になる。一度持った妻に別れたのは、久しい前の事である。独身で小倉に来ているのを、東京にいるお祖母《ば》あさんがひどく案じて、手紙をよこす度に娵《よめ》の詮議をしている。今宵《こよい》もそのお祖母あさんの手紙の来たのを、客があったので、封を切らずに机の上に載せて置いた。
 大野は昏《くら》くなったランプの心を捩《ね》じ上げて、その手紙の封を開いた。行儀の好《い》いお家流の細字を見れば、あの角縁《つのぶち》の目金を掛けたお祖母あさんの顔を見るようである。
 歳暮もおひおひ近く相成《あいなり》候《そうら》へば、御上京なされ候日の、指折る程に相成候を楽み居り候。前便に申上候井上の嬢さんに引き合せくれんと、谷田の奥さんが申され候ゆゑ、今日上野へまゐり、只今《ただいま》帰りてこの手紙をしたため候。私と谷田の奥さんとにて先に参りをり候処へ、富子さん母上と御一しよに来られ、車を降りて立ち居られ候高島田の姿を、初て見候時には、実に驚き申候。世の中にはこの様なる美しき人もあるものかと、不思議に思はれ候程に候。この人を見せたらば、いかに女
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