てた島村抱月君も、蒲團を評して、醜のことを書かないで、醜の心を書いたと云つてゐる。祝盃の評はまだ拜見しない。醜の心は助兵衞の心である。
兎に角事柄は惡い。併しこの事柄をけしからんと云ふのが、相手の假設人物である爲めに、別に氣恥かしい筈もない代りには、それを書いたのをけしからんと云ふのは、書いた動機、書いた Beweggrund の評になつて、作品の評にならない。人の行爲の動機はわからないものだと Kant が云つてゐる。藝術家の物を作る動機も恐らくはわかるまい。序だから云ふが、人間の心は醜惡なものだと前極《まへぎめ》をして置いて、醜惡でない心を書くのを pose だとするのも、矢張動機の穿鑿で、あぶない話だ。醜惡の心を書く poseur も無いには限るまい。
も一つ今の日本人に闕けてゐる詞に就いて簡單に話さう。
外でもない。〔Sich la:cherlich machen〕 といふ獨逸語である。尤も獨逸には限らない。Pose, poseur なんぞといふ佛語を必要上から出したから、佛語で同じ事を言つて見れば、se rendre ridicule である。
〔La:cherlich〕 も ridicule も可笑しいといふことである。然るに自分も可笑しくするといふ詞が日本には無い。人に笑はれるといふと、大相意味が輕くなつてしまふ。世の物笑へになるなどといふ詞が古くは有つた。これは稍※[#二の字点、1−2−22]似てゐるやうだが、今はそんな詞も行はれてゐない。
西洋人は自分を可笑しくすることをひどく嫌ふ。それだから其詞がある。日本人は自分を可笑しくするのが平氣である。それだから其詞が無い。
義憤なんぞが好い例である。義憤の當否は措いて、何に寄らず、けしからんけしからんを連發するのは、傍から見ると可笑しい。日本人がそれを構はずに遣るのは、自分を可笑しくすることを厭はないのである。
Maupassant の譯書が發賣禁止になるなんぞを見ると、政府も或は自分を可笑しくするのを厭はないのではあるまいか。
底本:「鴎外全集 第二十六卷」岩波書店
1973(昭和48)年12月22日発行
底本の親本:「東亞の光 第四卷第七號」
1909(明治42)年7月1日発行
初出:「東亞の光 第四卷第七號」
1909(明治42)年7月1日発行
入力:岩澤秀紀
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