が》れになりましたの。それと一しょに何もかもお流れになりましたのね。まあ、本当に迷ってしまっている女にだって、何もかも大きな声ではっきりそう言えとおっしゃることは、男の方にも出来ますまい。ところで何を打ち明けるにも、微かな溜息とか、詞のちょいとした不思議な調子とか云うものしか持ち合せない女が、まだ八分通りしか迷っていなかったのでございますからね。
男。そうですか。ああ。そうでしたか。わたくしは馬鹿ですなあ。
貴夫人。そこであれからは、御一しょに馬車から出てお暇乞をしてからは、ちっともお目に掛かりませんでしまいましたのね。それはあなたがわたくしを避けて逢わないようになさいましたのも、御無理ではございません。わたくしの手からなんの手掛かりをもお受けにならなかったのですからね。そんなわけで、まあ、きょうお目に掛かったのは本当に久し振りでございましたわね。わたくしの申す事はお分かりになりましたでしょう。あの時二頭曳の馬車を雇っていらっしゃったらと申すのでございますよ。
男。ああ。ああ。
貴夫人。本当になんでも無い事のお蔭で、どんな結構な事でも出来たり出来なかったりするのが世の習いとかでございますのね。あなた、もうなんにもおっしゃりっこなしよ。後悔なすったってあなたのおためにもわたくしのためにもなりませんわ。まあ、あの時の埋合せにこれからわたくしを内へお送下さいまし。しっかり宅の主人の手におわたしなさいますようにね。
男。そんなら馬車を見附けて来ましょう。
貴夫人。ええ。それがようございます、雨が降っていますから。
男。そこで今日は、あなたを尊敬いたして、一頭曳にいたしますよ。
貴夫人。あら。それは余計な御会釈でございますわ。やっぱり二頭曳を雇って来て戴きましょう。そういたすとわたくし今になってはどんな静かな、軟い二頭曳でも役に立たなくなっていると云うことを、あなたにお見せ申しますから、あなたもそのおつもりでお附合いなさいますようにね。ほんにほんに男の方と云うものは物分かりが悪くっていらっしゃいますことね。わたくし厭になってしまいますわ。さあ御面倒でも雇いにいらっしゃって下さいまし。くどいようで失礼ではございますが、女を内へ送ってやる時には、いつでも一番余計に馬の附いている馬車を連れて来るものだと云うことをお忘れにならないようにね。さあ、いらっしゃいましよ。
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(男首を俛《た》れて辻馬車のたまりをさして行く。昔のおろかなりし事の苦澀《くじゅう》なる記念のために、その面上には怜《あわれ》むべき苦笑の影浮べり。灰いろの空よりは秋めける雨しとしとと降れり。)
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底本:「諸国物語(上)」ちくま文庫、筑摩書房
   1991(平成3)年12月4日第1刷発行
底本の親本:「鴎外全集」岩波書店
   1971(昭和46)年11月〜1975(昭和50)年6月
入力:土屋隆
校正:noriko saito
2007年12月27日作成
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