「どうです」とそうおっしゃいましたね。御挨拶も大した御挨拶ですが、場所が場所でしたわね。わたくしは「結構」と御返事いたしました。窓硝子はがちゃがちゃ云う。車輸はがらがら云う。車全体はわたくしどもを目の廻るようにゆすっていました。ですから一しょう懸命に「けっこう、けーっーこーう」とどならなくてはなりませんでした。まるで雄鶏が時をつくるようでございましたわね。あれが軟い、静かな二頭曳の馬車の中でしたら、わたくしは俯目《ふしめ》になって、小さい声で、「結構でございますわ」とかなんとか申されたのでございます。そしてわたくしはその声に「おとなしい催促」やら「物静かなはにかみ」やらを匂わせることが出来ましたのでございましょう。そしてそれをお聞きになったあなたもその声の中から、わたくしがあなたと御一しょでいい心持がいたしていると云うことやら、わたくしがあなたを少しこわがっていると云うことやら、またそのこわいのがかえっていい心持でいると云うことやら、まあ、いろいろな事を御聞取りになることが出来ましたでございましょう。そのただ結構と云うだけの詞でも、それをわたくしが自分の詞の調子で申すことが出来ましたら、わたくしがもうあなたの自由になってもいいと思っていると云うことを、随分はっきりあなたにお知らせ申すことになりましたでしょう。ところがわたくしどならなくてはならなかったのですから、「これで結構ですよ、打っちゃって置いて頂戴」とでも云うように聞えたじゃございませんか。それからわたくしあのあとで五分間ほど黙っていましたの。ところがその黙っていると云うことも、がらがら云う一頭曳の中で本当には出来ませんでしたのね。あれが静かな、軟い、むくむくした二頭曳の中だったら、あなただってわたくしが黙っているのにお気が附いて、なぜ黙っているかとお尋ねになったでしょう。するとわたくしまあ、ちょいと泣き出したかも知れませんのね。
男。ははあ。なるほど。なるほど。
貴夫人。ところが一頭曳では黙っていると云うことがなんでも無い事になってしまいます。なぜと云ってご覧なさいまし。物を言ったって聞えないほどやかましい馬車の中では、黙っているより外|為方《しかた》が無いと云うことになりますからね。むずかしく申しますと、「無声に聴く」と云うことが一頭曳の馬車では出来なくなりますのですね。そこで肝心のだんまりも見事にお流《なが》れになりましたの。それと一しょに何もかもお流れになりましたのね。まあ、本当に迷ってしまっている女にだって、何もかも大きな声ではっきりそう言えとおっしゃることは、男の方にも出来ますまい。ところで何を打ち明けるにも、微かな溜息とか、詞のちょいとした不思議な調子とか云うものしか持ち合せない女が、まだ八分通りしか迷っていなかったのでございますからね。
男。そうですか。ああ。そうでしたか。わたくしは馬鹿ですなあ。
貴夫人。そこであれからは、御一しょに馬車から出てお暇乞をしてからは、ちっともお目に掛かりませんでしまいましたのね。それはあなたがわたくしを避けて逢わないようになさいましたのも、御無理ではございません。わたくしの手からなんの手掛かりをもお受けにならなかったのですからね。そんなわけで、まあ、きょうお目に掛かったのは本当に久し振りでございましたわね。わたくしの申す事はお分かりになりましたでしょう。あの時二頭曳の馬車を雇っていらっしゃったらと申すのでございますよ。
男。ああ。ああ。
貴夫人。本当になんでも無い事のお蔭で、どんな結構な事でも出来たり出来なかったりするのが世の習いとかでございますのね。あなた、もうなんにもおっしゃりっこなしよ。後悔なすったってあなたのおためにもわたくしのためにもなりませんわ。まあ、あの時の埋合せにこれからわたくしを内へお送下さいまし。しっかり宅の主人の手におわたしなさいますようにね。
男。そんなら馬車を見附けて来ましょう。
貴夫人。ええ。それがようございます、雨が降っていますから。
男。そこで今日は、あなたを尊敬いたして、一頭曳にいたしますよ。
貴夫人。あら。それは余計な御会釈でございますわ。やっぱり二頭曳を雇って来て戴きましょう。そういたすとわたくし今になってはどんな静かな、軟い二頭曳でも役に立たなくなっていると云うことを、あなたにお見せ申しますから、あなたもそのおつもりでお附合いなさいますようにね。ほんにほんに男の方と云うものは物分かりが悪くっていらっしゃいますことね。わたくし厭になってしまいますわ。さあ御面倒でも雇いにいらっしゃって下さいまし。くどいようで失礼ではございますが、女を内へ送ってやる時には、いつでも一番余計に馬の附いている馬車を連れて来るものだと云うことをお忘れにならないようにね。さあ、いらっしゃいましよ。
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