いふには、少し scandal の気味を帯びてゐなくてはだめなやうだ。併し雑誌の体面といふものがある。僕はさう思つて、新喜楽の三字に棒を引いて、傍へ「追儺」と書いた。これなら少くも真面目に見える。僕は豆打の話をしようと思ふ。そして其豆打は築地の新喜楽での出来事なのである。そして僕が此話をすることの出来るのは M. F 君のお蔭である。僕は追儺と書いた左傍に、「M. F 君に献ず」と書かうかと思つた。書籍に dedicate するといふことがある以上は、雑誌の中に書いたものにもそれがあつても好くはあるまいか。「翻訳の権利を保留す」、「転載を禁ず」なぞは、雑誌にも随分あるではないか。併し謹厳といふ字を僕の形容に使ふことに極めてゐる新聞記者諸君が狼狽しては気の毒だと思つて止めた。M. F 君は劇談会で二三度出会つた人である。二月三日の午後六時に、僕を新喜楽へ案内した。活版の案内状に、何某も呼んであるから来いといふ書添がしてあつた。所謂何某が女性の名や何ぞでないことは、僕を呼ぶのであるから言ふことを待たない。役所は四時に引ける。卓の上に出してある取扱中の書類を、非常持出の箪笥にしまつて鍵を掛ける。帽を被る。刀を吊る。雨覆を著る。いつもと違つて、何となく気が引き立つてゐる。いつもでも内へ素直に帰られる日は少い。宴会は沢山ある。二箇所を断つて一箇所に往くといふやうな日もある。併しいつも往く所は極《き》まつてゐる。偕行社、富士見軒、八百勘、湖月、帝国ホテル、精養軒抔といふ所である。下つては宝亭、富士見楼などといふこともある。併し新喜楽とは珍らしい。常磐、小常磐、瓢屋なんぞは稀に往くことがある。新喜楽に至つては、丸で未知の世界である。新喜楽に往くといふのは、知らぬ処に通ずる戸を開けるやうで、何か期待する所があるやうな心持である。女の綺麗なのがゐるだらうと思ふ為めではない。今の自然派の小説を見れば、作者の空想はいつも女性に支配せられてゐるが、あれは作者の年が若いからかと思ふ。僕のやうに五十近くなると、性欲生活が生活の大部分を占めてはゐない。矯飾して言ふのではない。矯飾して、それが何の用に立つものか。只未知の世界といふことが僕を刺戟するのである。譬へばまだ読んだ事のない書物の紙を紙切小刀で切る時の感じの如きものである。役所を出て電車に乗る。灰色の空から細い雨が折々落ちて来る日である。電車の中で読む本を用意してゐるが、四時過の電車ではめつたに読めない。本願寺前で降りる。大抵此辺だらうと思つて、堀ばたの方へ向いて、一軒一軒見て往く。小綺麗な家に堀越といふ標礼がある。二三度逢つた事があるので、こゝにゐるなと思ふ。長靴をよごすまいと思つて飛び/\歩く。
 とう/\新喜楽を見付けた。堀ばたの通に出る角の家であつた。格子戸の前で時計を見る。馬鹿に早い。まだ四時三十分だから、約束の時間までは、一時間半もある。格子戸をはいる。中は叩きで、綺麗に洗つてある。泥靴の痕が附く。嫌な心持がする。早過ぎることわりを言つて上ると、二階へ案内せられる。東と南とを押し開いた、縁側なしの広間である。西が床の間で、北が勝手からの上り口に通ずる。時刻になるまで気長に待つ積で、東南の隅に胡坐をかいた。家が新しい。畳が新しい。畳に焼焦しが一つないのは、此家に来る客は特別に行儀が好いのか知らんなぞと思ふ。兎に角心持が好い。女中が茶と菓子を運んで来る。笑つたり余計な事を言つたりせずに下つて行くのが気に入る。著ものも沈黙の色であつた。茶を飲んでしまふ。菓子を食つてしまふ。持つてゐた本を引繰返《ひつくりかへ》して見たが読む気にもならない。葉巻を出して尻尾を咬み切つて、頭の方を火鉢の佐倉に押附《おつゝ》けて燃やす。周囲がひつそりとする。堀ばたの方の往来に足駄の音がする。丈の高い massif な障子の、すわつて肱の届くあたりに、開閉の出来るやうに、小さい戸が二枚づゝ嵌めてある。それを開けて見たが、横町へでも曲つたと見えて、人は見えない。総ての物が灰色になつて、海軍の参考品陳列館のけば/\しい新築までが、その灰色の一刷毛をなすられてゐる。兵学校の方から空車が一つ出て来て、ゆる/\と西の方へ行つた。戸を締める。電灯が附く。僕は烟草をふかしながら座敷を見て、かう思つた。広い、あかるい、綺麗な間で、なんにも目の邪魔になるものが無い。嫌な額なんぞも無い。避くべからざる遺物として床の間はあつても、掛物も花も目立たぬ程にしてある。胡坐をかいて旨い物を食つて、芸者のする事を見てゐるには、最も適当な場所だ。物質的時代の日本建築はこれだと云つても好からう、といふやうな事を思つた。此時僕のすわつてゐる処と diagonal になつてゐる、西北の隅の襖がすうと開いて、一間にはいつて来るものがある。小さい萎びたお婆あさんの
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