戮候|而者《ては》、御政体|不相立御儀《あひたゝざるおんぎ》と奉存候。此辺之処閣下御洞察に而、御病中ながら何卒《なにとぞ》御処置被遊候御儀、単《ひとへ》に奉願候也。正月二十一日薫子。」此書を得た荒川甚作は、明治元年三月病を以て参与の職を辞し、氏名を改めて尾崎|良知《よしとも》と云ひ、名古屋に住んでゐたさうである。
薫子の書は田中不二麿若くは丹羽淳太郎、後の名賢の手より出で、前海相|八代《やしろ》氏の実兄尾藩|磅※[#「石+(蒲/寸)」、第3水準1−89−18]《はうはく》隊士松山|義根《よしね》を経て、尾張小牧郵便局倉知伊右衛門さんの有に帰し、倉知氏はわたくしを介してこれを津下氏に贈与した。倉知氏はその薫子の自筆なることを信じてゐる。一説に薫子の書の正本は丹波国船井郡|新荘《しんしやう》村船枝の船枝神社の神職西田次郎と云ふ人が蔵してゐると云ふ。是は三宅武彦さんの語る所である。
薫子の書は既に印行せられたことがある。それは「開成学校御構内辻(新次)後藤(謙吉)両氏蔵版遠近新聞第五号、明治二年四月十日|発兌《はつだ》」の冊中にある。新聞は尾佐竹氏が蔵してゐる。上に載する所は倉知本を底本
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