出した。途中の主人公も洋行する。露西亞にゐて肺結核になる。事實に據つたらしい小説で、長谷川辰之助君とは年代の關係が違ふが、その經歴の順序が似てゐる。私は始終長谷川辰之助君の事を思ひながら讀んだ。
 途中の主人公は、肺結核になつて露西亞から歸つても、その後何年か生きてゐて死んだ。長谷川辰之助君はとう/\故郷に歸り著かずに、却つて途中で亡くなられた。
 亡くなられたのは、印度洋の船の中であつたさうだ。誰やら新聞で好い死どころだと云つた。私にもさういふ感じがする。
 併し臨終の折の天候はどうであつたか知らない。時刻は何時であつたか知らない。船の何處で死なれたか知らない。
 私はかういふ風に想像することを禁じ得ないのである。病氣で歐羅巴を立たれたのであるから、日本人の乘合のない船には乘られなかつたに違ひない。病が段々重るので、その同國人はキヤビンの病牀を離れずに世話をしてゐる。心安くなつた外國人も、同舟の夙縁で、親切に見舞に來る。露西亞人もその中にゐて、をり/\露語で話をする。
 或る夕、海が穩である。長谷川辰之助君はいつもより氣分が好いから、どうぞデツクの上に連れて行つて海を見せてくれいと云はれる。側のものは案じて留めようとするが、どうしても聽かれない。そこで世話をしてゐる人がやう/\納得する。
 かういふ船には籐の寢臺がある。あれは航海者がこゝろざす港に著くと、船の小使に遣つてしまふ。さうすると、小使がそれを繕つて持つてゐて、次に乘る客に賣るのである。あの籐の寢臺がデツクの上にある。その上へ長谷川辰之助君を連れて行つて寢かしてあげる。海が穩である。印度洋の上の空は澄みわたつて、星が一面にかがやいてゐる。
 程よく冷えて、和《やはら》かな海の上の空氣は、病のある胸をも喉をも刺戟しない。久し振で胸を十分にひろげて呼吸をせられる。何とも言へない心持がする。船は動くか動かないか知れないやうに、晝のぬくもりを持つてゐる太洋の上をすべつて行く。暫く仰向いて星を見てゐられる。本郷彌生町の家のいつもの居間の机の上にランプの附いてゐるのが、ふと畫のやうに目に浮ぶ。併しそこへ無事で歸り著かれようか、それまで體が續くまいかなどといふ餘計な考は、不思議に起つて來ない。
 長谷川辰之助君はぢいつと目を瞑つてをられた。そして再び目を開かれなかつた。
 あゝ。つひ/\少し小説を書いてしまつた。併しこれは私の想像だといふことをことわつて置くのであるから、人に誤解せられることもあるまい。隨つて亡くなられた人を累するやうな虞もあるまい。



底本:「鴎外全集 第二十六卷」岩波書店
   1973(昭和48)年12月22日発行
底本の親本:「妄人妄語」至誠堂書店
   1915(大正4)年2月22日発行
初出:「二葉亭四迷」易風社
   1909(明治42)年8月7日発行
入力:岩澤秀紀
校正:染川隆俊
2009年10月14日作成
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