あるメモアルなんぞといふものは、用心して讀むべきものであらう。意識して筆を曲げたものがあるとすれば、固より沙汰の限である。縱令それまでゞなくとも、記憶は餘り確なものではない。誰の心にも自分の過去を辯護し修正しようと思ふ傾向はあるから、意識せずに先づ自ら欺いて、そして人を欺くことがある。
 何を話したか。
 私は小説を書いてゐるのではないといふことを、先づ十分意識の上に喚び起して置かねばならない。私は亡くなられた人に對して、大いに、大いに謹愼しなくてはならない。
 さてさうなつて見ると、私の記憶は穴だらけで、到底對話を組み立てることは出來ない。
 長谷川辰之助君は、舞姫を譯させて貰つて有難いといふやうな事を、最初に云はれた。それはあべこべで、お禮は私が言ふべきだ、あんな詰まらないものを、好く面倒を見て譯して下さつたと答へた。
 血笑記の事を問うた。あれはもう譯してしまつて、本屋の手に※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つてゐると話された。
 洋行すると云はれた。私は、かういふ人が洋行するのは此上もない事だと思つて、うれしく感じて、それは結構な事だ、二十年このかた西洋の樣子を見ずにゐる私なんぞは、羨ましくてもしかたがないと云つた。
 暫く話してゐたが、此人の口からは存外文學談が出ないで、却て露西亞の國風、露西亞人の性質といふやうな話が出た。露西亞と日本との關係といふやうな事も話頭に上つた。
 一時間まではゐないで歸られたやうに思ふ。
 その後、私は長谷川辰之助君の事は忘れてゐた。ある日役所から引き掛に、須田町で、電車の※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]へ賣りに來る報知新聞の夕刊を買つて見た。その夕刊の一面に、長谷川辰之助君の事が二段ばかり書いてある。西洋で肺結核になられて、いよ/\歸郷せられるといふことであつた。
 私はそれを讀んで、外の事は見ずに、新聞を置いて、いろ/\な事を考へながら歸つた。容態が好くないから歸られるのだとは書いてあつた。併し兎に角、印度洋を渡つての大旅行を敢てせられるのだから、存外惡性でないのだらうとも思つて見た。結核菌の證明せられた肺尖加答兒の人にも、すつかり快復して長生をする人もあるなどといふことを思つた。
 ある日新小説が來た。小山内薫君の途中といふ小説が出てゐる。此頃ちよい/\人の小説を讀むやうになつてゐるので、ふとそれを讀み出した。途中の主人公も洋行する。露西亞にゐて肺結核になる。事實に據つたらしい小説で、長谷川辰之助君とは年代の關係が違ふが、その經歴の順序が似てゐる。私は始終長谷川辰之助君の事を思ひながら讀んだ。
 途中の主人公は、肺結核になつて露西亞から歸つても、その後何年か生きてゐて死んだ。長谷川辰之助君はとう/\故郷に歸り著かずに、却つて途中で亡くなられた。
 亡くなられたのは、印度洋の船の中であつたさうだ。誰やら新聞で好い死どころだと云つた。私にもさういふ感じがする。
 併し臨終の折の天候はどうであつたか知らない。時刻は何時であつたか知らない。船の何處で死なれたか知らない。
 私はかういふ風に想像することを禁じ得ないのである。病氣で歐羅巴を立たれたのであるから、日本人の乘合のない船には乘られなかつたに違ひない。病が段々重るので、その同國人はキヤビンの病牀を離れずに世話をしてゐる。心安くなつた外國人も、同舟の夙縁で、親切に見舞に來る。露西亞人もその中にゐて、をり/\露語で話をする。
 或る夕、海が穩である。長谷川辰之助君はいつもより氣分が好いから、どうぞデツクの上に連れて行つて海を見せてくれいと云はれる。側のものは案じて留めようとするが、どうしても聽かれない。そこで世話をしてゐる人がやう/\納得する。
 かういふ船には籐の寢臺がある。あれは航海者がこゝろざす港に著くと、船の小使に遣つてしまふ。さうすると、小使がそれを繕つて持つてゐて、次に乘る客に賣るのである。あの籐の寢臺がデツクの上にある。その上へ長谷川辰之助君を連れて行つて寢かしてあげる。海が穩である。印度洋の上の空は澄みわたつて、星が一面にかがやいてゐる。
 程よく冷えて、和《やはら》かな海の上の空氣は、病のある胸をも喉をも刺戟しない。久し振で胸を十分にひろげて呼吸をせられる。何とも言へない心持がする。船は動くか動かないか知れないやうに、晝のぬくもりを持つてゐる太洋の上をすべつて行く。暫く仰向いて星を見てゐられる。本郷彌生町の家のいつもの居間の机の上にランプの附いてゐるのが、ふと畫のやうに目に浮ぶ。併しそこへ無事で歸り著かれようか、それまで體が續くまいかなどといふ餘計な考は、不思議に起つて來ない。
 長谷川辰之助君はぢいつと目を瞑つてをられた。そして再び目を開かれなかつた。
 あゝ。つひ/\少し小説を書いてしまつた。併しこ
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