その外に立って聞いていると、物音はじき窓の内でしている。家の構造から考えて見ると、どうしても※[#「火+亢」、第4水準2−79−62]《かん》の上なのだ。表から見える、土の暴露している※[#「火+亢」、第4水準2−79−62]は、鉤《かぎ》なりに曲った※[#「火+亢」、第4水準2−79−62]の半分で、跡の半分は積み上げた磚で隠れているものと思われる。物音のするのは、どうしてもその跡の半分の※[#「火+亢」、第4水準2−79−62]の上なのだ。こうなると、小川君はどうもこの窓の内を見なくては気が済まない。そこで磚を除《の》けて、突き上げになっている障子を内へ押せば好いわけだ。ところがその磚がひどくぞんざいに、疎《まばら》に積んであって、十ばかりも卸してしまえば、窓が開きそうだ。小川君は磚を卸し始めた。その時物音がぴったりと息《や》んだそうだ。」
 小川は諦念《あきら》めて飲んでいる。平山は次第に熱心に傾聴している。上さんは油断なく酒を三人の杯に注いで廻る。
「小川君は磚を一つ一つ卸しながら考えたと云うのだね。どうもこれは塞《ふさ》ぎ切《きり》に塞いだものではない。出入口にしているらしい。しかし中に人が這入っているとすると、外から磚が積んであるのが不思議だ。兎《と》に角《かく》拳銃《けんじゅう》が寝床に置いてあったのを、持って来れば好かったと思ったが、好奇心がそれを取りに帰る程の余裕を与えないし、それを取りに帰ったら、一しょにいる人が目を醒《さ》ますだろうと思って諦念めたそうだ。磚は造做もなく除けてしまった。窓へ手を掛けて押すとなんの抗抵もなく開く。その時がさがさと云う音がしたそうだ。小川君がそっと中を覗いて見ると、粟稈《あわがら》が一ぱいに散らばっている。それが窓に障《さわ》って、がさがさ云ったのだね。それは好いが、そこらに甑《かめ》のような物やら、籠《かご》のような物やら置いてあって、その奥に粟稈に半分|埋《うず》まって、人がいる。慥《たし》かに人だ。土人の着る浅葱色《あさぎいろ》の外套のような服で、裾《すそ》の所がひっくり返っているのを見ると、羊の毛皮が裏に附けてある。窓の方へ背中を向けて頭を粟稈に埋めるようにしているが、その背中はぶるぶる慄《ふる》えていると云うのだね。」
 小川は杯を取り上げたり、置いたりして不安らしい様子をしている。平山はますます熱心に聞いている。
 主人はわざと間を置いて、二人を等分に見て話し続けた。
「ところがその人間の頭が辮子《べんつう》でない。女なのだ。それが分かった時、小川君はそれまで交っていた危険と云う念が全く無くなって、好奇心が純粋の好奇心になったそうだ。これはさもありそうな事だね。※[#「にんべん+爾」、第3水準1−14−45]《にい》と声に力を入れて呼んで見たが、ただ慄えているばかりだ。小川君は※[#「火+亢」、第4水準2−79−62]の上へ飛び上がった。女の肩に手を掛けて、引き起して、窓の方へ向けて見ると、まだ二十《はたち》にならない位な、すばらしい別品だったと云うのだ。」
 主人はまた間を置いて二人を見較べた。そしてゆっくり酒を一杯飲んだ。「これから先は端折《はしょ》って話すよ。これまでのような珍らしい話とは違って、いつ誰がどこで遣っても同じ事だからね。一体支那人はいざとなると、覚悟が好い。首を斬《き》られる時なぞも、尋常に斬られる。女は尋常に服従したそうだ。無論小川君の好嫖致《はおぴやおち》な所も、女の諦念《あきらめ》を容易ならしめたには相違ないさ。そこで女の服従したのは好いが、小川君は自分の顔を見覚えられたのがこわくなったのだね。」ここまで話して、主人は小川の顔をちょっと見た。赤かった顔が蒼《あお》くなっている。
「もうよし給え」と云った小川の声は、小さく、異様に空洞《うつろ》に響いた。
「うん。よすよよすよ。もうおしまいになったじゃないか。なんでもその女には折々土人が食物をこっそり窓から運んでいたのだ。女はそれを夜なかに食ったり、甑《かめ》の中へ便を足したりすることになっていたのを、小川君が聞き附けたのだね。顔が綺麗だから、兵隊に見せまいと思って、隠して置いたのだろう。羊の毛皮を二枚着ていたそうだが、それで粟稈の中に潜っていたにしても、※[#「火+亢」、第4水準2−79−62]《かん》は焚《た》かれないから、随分寒かっただろうね。支那人は辛抱強いことは無類だよ。兎に角その女はそれきり粟稈の中から起きずにしまったそうだ。」主人は最後の一句を、特別にゆっくり言った。
 違棚の上でしつっこい金の装飾をした置時計がちいんと一つ鳴った。
「もう一時だ。寝ようかな。」こう云ったのは、平山であった。
 主客は暫《しばら》くぐずぐずしていたが、それからはどうした事か、話が栄《は》えない。とうとう一同寝ると云うことになって、客を二階へ案内させるために、上さんが女中を呼んだ。
 一同が立ち上がる時、小川の足元は大ぶ怪しかった。
 主人が小川に言った。「さっきの話は旧暦の除夜だったと君は云ったから、丁度今日が七回忌だ。」
 小川は黙って主人の顔を見た。そして女中の跡に附いて、平山と並んで梯子《はしご》を登った。
 二階は西洋まがいの構造になっていて、小さい部屋が幾つも並んでいる。大勢の客を留める計画をして建てた家と見える。廊下には暗い電燈が附いている。女中が平山に、「あなたはこちらで」と一つの戸を指さした。
 戸の撮《つま》みに手を掛けて、「さようなら」と云った平山の声が小川にはひどく不愛相に聞えた。
 女中はずんずん先へ立って行く。
「まだ先かい」と小川が云った。
「ええ。あちらの方に煖炉《だんろ》が焚いてございます。」こう云って、女中は廊下の行き留まりの戸まで連れて行った。
 小川は戸を開けて這入《はい》った。瓦斯《ガス》煖炉が焚いて、電燈が附けてある。本当の西洋間ではない。小川は国で這入っていた中学の寄宿舎のようだと思った。壁に沿うて棚を吊《つ》ったように寝床が出来ている。その下は押入れになっている。煖炉があるのに、枕元《まくらもと》に真鍮《しんちゅう》の火鉢を置いて、湯沸かしが掛けてある。その傍《そば》に九谷《くたに》焼の煎茶《せんちゃ》道具が置いてある。小川は吭《のど》が乾くので、急須《きゅうす》に一ぱい湯をさして、茶は出ても出なくても好いと思って、直ぐに茶碗に注いで、一口にぐっと呑《の》んだ。そして着ていたジャケツも脱がずに、行きなり布団の中に這入った。
 横になってから、頭の心が痛むのに気が附いた。「ああ、酒が変に利いた。誰だったか、丸く酔わないで三角に酔うと云ったが、己は三角に酔ったようだ。それに深淵|奴《め》があんな話をしやがるものだから、不愉快になってしまった。あいつ奴、妙な客間を拵《こしら》えやがったなあ。あいつの事だから、賭場《とば》でも始めるのじゃあるまいか。畜生。布団は軟かで好いが、厭《いや》な寝床だなあ。※[#「火+亢」、第4水準2−79−62]のようだ。そうだ。丸で※[#「火+亢」、第4水準2−79−62]だ。ああ。厭だ。」こんな事を思っているうちに、酔と疲れとが次第に意識を昏《くら》ましてしまった。
 小川はふいと目を醒ました。電燈が消えている。しかし部屋の中は薄明りがさしている。窓からさしているかと思って、窓を見れば、窓は真っ暗だ。「瓦斯煖炉の明りかな」と思って見ると、なるほど、礬土《はんど》の管《くだ》が五本並んで、下の端だけ樺色《かばいろ》に燃えている。しかしその火の光は煖炉の前の半畳敷程の床を黄いろに照しているだけである。それと室内の青白いような薄明りとは違うらしい。小川は兎に角電燈を附けようと思って、体を半分起した。その時正面の壁に意外な物がはっきり見えた。それはこわい物でもなんでもないが、それが見えると同時に、小川は全身に水を浴せられたように、ぞっとした。見えたのは紅唐紙《べにとうし》で、それに「立春大吉」と書いてある。その吉の字が半分裂けて、ぶらりと下がっている。それを見てからは、小川は暗示を受けたように目をその壁から放すことが出来ない。「や。あの裂けた紅唐紙の切れのぶら下っている下は、一面の粟稈《あわがら》だ。その上に長い髪をうねらせて、浅葱色《あさぎいろ》の着物の前が開いて、鼠色によごれた肌着が皺《しわ》くちゃになって、あいつが仰向けに寝ていやがる。顋《あご》だけ見えて顔は見えない。どうかして顔が見たいものだ。あ。下脣《したくちびる》が見える。右の口角から血が糸のように一筋流れている。」
 小川はきゃっと声を立てて、半分起した体を背後《うしろ》へ倒した。
 翌朝深淵の家へは医者が来たり、警部や巡査が来たりして、非常に雑※[#「二点しんにょう+鰥のつくり」、第4水準2−89−93]《ざっとう》した。夕方になって、布団を被《かぶ》せた吊台《つりだい》が舁《か》き出された。
 近所の人がどうしたのだろうと囁《ささや》き合ったが、吊台の中の人は誰だか分からなかった。「いずれ号外が出ましょう」などと云うものもあったが、号外は出なかった。
 その次の日の新聞を、近所の人は待ち兼ねて見た。記事は同じ文章で諸新聞に出ていた。多分どの通信社かの手で廻したのだろう。しかし平凡極まる記事なので、読んで失望しないものはなかった。
「小石川区|小日向《こびなた》台町《だいまち》何丁目何番地に新築落成して横浜市より引き移りし株式業深淵某氏宅にては、二月十七日の晩に新宅祝として、友人を招き、宴会を催し、深更に及びし為《た》め、一二名宿泊することとなりたるに、其《その》一名にて主人の親友なる、芝区南佐久間町何丁目何番地住何新聞記者小川某氏其夜|脳溢血症《のういっけつしょう》にて死亡せりと云ふ。新宅祝の宴会に死亡者を出したるは、深淵氏の為め、気の毒なりしと、近所にて噂《うわさ》し合へり。」
[#地から1字上げ](明治四十五年四月)



底本:「灰燼 かのように 森鴎外全集3」ちくま文庫、筑摩書房
   1995(平成7)年8月24日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版森鴎外全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年4月〜9月
初出:「中央公論」
   1912(明治45)年4月
入力:土屋隆
校正:noriko saito
2006年12月30日作成
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