した。電燈が消えている。しかし部屋の中は薄明りがさしている。窓からさしているかと思って、窓を見れば、窓は真っ暗だ。「瓦斯煖炉の明りかな」と思って見ると、なるほど、礬土《はんど》の管《くだ》が五本並んで、下の端だけ樺色《かばいろ》に燃えている。しかしその火の光は煖炉の前の半畳敷程の床を黄いろに照しているだけである。それと室内の青白いような薄明りとは違うらしい。小川は兎に角電燈を附けようと思って、体を半分起した。その時正面の壁に意外な物がはっきり見えた。それはこわい物でもなんでもないが、それが見えると同時に、小川は全身に水を浴せられたように、ぞっとした。見えたのは紅唐紙《べにとうし》で、それに「立春大吉」と書いてある。その吉の字が半分裂けて、ぶらりと下がっている。それを見てからは、小川は暗示を受けたように目をその壁から放すことが出来ない。「や。あの裂けた紅唐紙の切れのぶら下っている下は、一面の粟稈《あわがら》だ。その上に長い髪をうねらせて、浅葱色《あさぎいろ》の着物の前が開いて、鼠色によごれた肌着が皺《しわ》くちゃになって、あいつが仰向けに寝ていやがる。顋《あご》だけ見えて顔は見えない。どうかして顔が見たいものだ。あ。下脣《したくちびる》が見える。右の口角から血が糸のように一筋流れている。」
小川はきゃっと声を立てて、半分起した体を背後《うしろ》へ倒した。
翌朝深淵の家へは医者が来たり、警部や巡査が来たりして、非常に雑※[#「二点しんにょう+鰥のつくり」、第4水準2−89−93]《ざっとう》した。夕方になって、布団を被《かぶ》せた吊台《つりだい》が舁《か》き出された。
近所の人がどうしたのだろうと囁《ささや》き合ったが、吊台の中の人は誰だか分からなかった。「いずれ号外が出ましょう」などと云うものもあったが、号外は出なかった。
その次の日の新聞を、近所の人は待ち兼ねて見た。記事は同じ文章で諸新聞に出ていた。多分どの通信社かの手で廻したのだろう。しかし平凡極まる記事なので、読んで失望しないものはなかった。
「小石川区|小日向《こびなた》台町《だいまち》何丁目何番地に新築落成して横浜市より引き移りし株式業深淵某氏宅にては、二月十七日の晩に新宅祝として、友人を招き、宴会を催し、深更に及びし為《た》め、一二名宿泊することとなりたるに、其《その》一名にて主人の親友なる、芝区南佐久間町何丁目何番地住何新聞記者小川某氏其夜|脳溢血症《のういっけつしょう》にて死亡せりと云ふ。新宅祝の宴会に死亡者を出したるは、深淵氏の為め、気の毒なりしと、近所にて噂《うわさ》し合へり。」
[#地から1字上げ](明治四十五年四月)
底本:「灰燼 かのように 森鴎外全集3」ちくま文庫、筑摩書房
1995(平成7)年8月24日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版森鴎外全集」筑摩書房
1971(昭和46)年4月〜9月
初出:「中央公論」
1912(明治45)年4月
入力:土屋隆
校正:noriko saito
2006年12月30日作成
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