32
山陽道及南海道  55
西海道      50
―――――――――――――
  ○      42.4%

 これから古米食込高一二%を入れ戻せば、三〇、四%の収穫となる。七年の不良な景況は、八年の初になつても依然としてゐた。江戸で白米が百俵百十五両、小売百文に付二合五勺、京都の小売相場も同じだと云ふ記載がある。江戸の卸値は二斗五升俵として換算すれば、一両に付三斗四合である。
 平八郎は天保七年に米価の騰貴した最中に陰謀を企てて、八年二月に事を挙げた。貧民の身方になつて、官吏と富豪とに反抗したのである。さうして見れば、此事件は社会問題と関係してゐる。勿論社会問題と云ふ名は、西洋の十八世紀末に、工業に機関を使用するやうになり、大工場が起つてから、企業者と労働者との間に生じたものではあるが、其萌芽はどこの国にも昔からある。貧富の差から生ずる衝突は皆それである。
 若し平八郎が、人に貴賤貧富の別のあるのは自然の結果だから、成行の儘《まゝ》に放任するが好いと、個人主義的に考へたら、暴動は起さなかつただらう。
 若し平八郎が、国家なり、自治団体なりにたよつて、当時の秩序を維持してゐながら、救済の方法を講ずることが出来たら、彼は一種の社会政策を立てただらう。幕府のために謀ることは、平八郎|風情《ふぜい》には不可能でも、まだ徳川氏の手に帰せぬ前から、自治団体として幾分の発展を遂げてゐた大阪に、平八郎の手腕を揮《ふる》はせる余地があつたら、暴動は起らなかつただらう。
 この二つの道が塞がつてゐたので、平八郎は当時の秩序を破壊して望《のぞみ》を達せようとした。平八郎の思想は未だ醒覚せざる社会主義である。
 未だ醒覚せざる社会主義は、独り平八郎が懐抱してゐたばかりではない。天保より前に、天明の飢饉と云ふのがあつた。天明七年には江戸で白米が一両に付一斗二升、小売百文に付三合五勺になつた。此年の五月十二日に大阪で米屋こはしと云ふことが始まつた。貧民が群をなして米店を破壊したのである。同月二十日には江戸でも米屋こはしが起つた。赤坂から端緒を発して、破壊せられた米商富人の家が千七百戸に及んだ。次いで天保の飢饉になつても、天保七年五月十二日に大阪の貧民が米屋と富家とを襲撃し、同月十八日には江戸の貧民も同じ暴動をした。此等の貧民の頭の中には、皆未だ醒覚せざる社会主義があつたのである。彼等は食ふべき米を得ることが出来ない。そして富家と米商とが其資本を運転して、買占其他の策を施し、貧民の膏血を涸《か》らして自ら肥えるのを見てゐる。彼等はこれに処するにどう云ふ方法を以てして好いか知らない。彼等は未だ醒覚してゐない。唯盲目な暴力を以て富家と米商とに反抗するのである。
 平八郎は極言すれば米屋こはしの雄である。天明に於いても、天保に於いても、米屋こはしは大阪から始まつた。平八郎が大阪の人であるのは、決して偶然ではない。
 平八郎は哲学者である。併しその良知の哲学からは、頼もしい社会政策も生れず、恐ろしい社会主義も出なかつたのである。
――――――――――――――――――――[#直線は中央に配置]
 平八郎が陰謀の与党は養子格之助、叔父宮脇志摩を除く外、殆皆門人である。それ以外には家塾の賄方《まかなひかた》、格之助の若党、中間《ちゆうげん》、瀬田済之助の若党、中間、大工が一人、猟師が一人ゐる位のものである。橋本忠兵衛は平八郎の妾の義兄、格之助の妾の実父であるが、これも同時に門人になつてゐた。
 暴動の翌年天保九年八月二十一日の裁決によつて、磔に処せられた二十人は左の通である。
[#ここから2字下げ]
大塩平八郎 美吉屋にて自刃す
大塩格之助 東組与力西田青太夫実子 美吉屋にて死す
渡辺良左衛門 東組同心 河内田井中にて切腹す
瀬田済之助 東組与力 河内恩地にて縊死す
小泉淵次郎 郡山柳沢甲斐守家来春木弥之助実子、東組与力養子 東町奉行所にて斬らる
庄司義左衛門 河内丹北郡東瓜破村助右衛門実子、東組同心養子 奈良にて捕はる
近藤梶五郎 東組同心 自宅焼跡にて切腹す
大井正一郎 玉造口与力倅 京都にて捕はる
深尾才次郎 河内交野郡尊延寺村百姓 能登にて自殺す
茨田郡次 河内茨田郡門真三番村百姓 支配役場へ自首す
高橋九右衛門 河内茨田郡門真三番村百姓 支配役場へ自首す
柏岡源右衛門 摂津東成郡般若寺村百姓 支配役場へ自首す
柏岡伝七 同上倅 自宅にて捕はる
西村利三郎 河内志紀郡弓削村百姓 江戸にて願人となり病死す
宮脇志摩 摂津三島郡吹田村神主 自宅にて切腹入水す
橋本忠兵衛 摂津東成郡般若寺村庄屋 京都にて捕はる
白井孝右衛門 摂津守口村百姓兼質屋 伏見に往く途中豊後橋にて捕はる
横山文哉 肥前三原村の人、摂津東成郡森小路村の医師となる 捕はる
木村司馬之助 摂津
前へ 次へ
全32ページ中30ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング