うつたへ》で聞いてゐた事が、更に吉見と云ふものの訴で繰り返されたと云ふに過ぎない。これには決心を促《うなが》す動機としての価値は殆《ほとんど》無い。然《しか》るにその決心が跡部には出来て、前には腫物《はれもの》に障《さは》るやうにして平山を江戸へ立たせて置きながら、今は目前の瀬田、小泉に手を着けようとする。これは一昨日の夜平山の密訴《みつそ》を聞いた時にすべき決心を、今偶然の機縁に触れてしたやうなものである。
 跡部は荻野等を呼んで、二|人《にん》を捕《とら》へることを命じた。その手筈《てはず》はかうである。奉行所に詰めるものは、先《ま》づ刀を脱《だつ》して詰所《つめしよ》の刀架《かたなかけ》に懸《か》ける。そこで脇差《わきざし》ばかり挿《さ》してゐて、奉行に呼ばれると、脇差をも畳廊下《たゝみらうか》に抜いて置いて、無腰《むこし》で御用談《ごようだん》の間《ま》に出る。この御用談の間に呼んで捕へようと云ふのが手筈である。併《しか》し万一の事があつたら切り棄てる外《ほか》ないと云ふので、奉行所に居合《ゐあは》せた剣術の師|一条一《いちでうはじめ》が切棄《きりすて》の役を引き受けた。
 さて跡部は瀬田、小泉の二人を呼ばせた。それを聞いた時、瀬田は「暫時《ざんじ》御猶予《ごいうよ》を」と云つて便所に起《た》つた。小泉は一人いつもの畳廊下《たゝみらうか》まで来て、脇差を抜いて下に置かうとした。此畳廊下の横手に奉行の近習《きんじゆ》部屋がある。小泉が脇差を下に置くや否《いな》や、その近習部屋から一人の男が飛び出して、脇差に手を掛けた。「はつ」と思つた小泉は、一旦手を放した脇差を又|掴《つか》んだ。引き合ふはずみに鞘走《さやはし》つて、とう/\、小泉が手に白刃《しらは》が残つた。様子を見てゐた跡部が、「それ、切り棄てい」と云ふと、弓の間《ま》まで踏み出した小泉の背後《うしろ》から、一条が百会《ひやくゑ》の下へ二寸程切り附けた。次に右の肩尖《かたさき》を四寸程切り込んだ。小泉がよろめく所を、右の脇腹《わきはら》へ突《つき》を一本食はせた。東組与力小泉|淵次郎《えんじらう》は十八歳を一期《いちご》として、陰謀第一の犠牲として命《いのち》を隕《おと》した。花のやうな許嫁《いひなづけ》の妻があつたさうである。
 便所にゐた瀬田は素足《すあし》で庭へ飛び出して、一本の梅の木を足場にして、
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