轤ヘ》れ或は濃き橄欖《オリワ》の林に遮られたる白堊《はくあ》の城砦《じやうさい》など、皆猶目前に在る心地ぞする、穹窿《きゆうりゆう》あり大理石柱ある竈女《ヘスチア》の祠《ほこら》の、今や聖母《マドンナ》の堂となりたる(マドンナ、サンタ、マリア)は、古《いにしへ》を好む人の心を留むべき遺蹟なり。一壁崩壞して、枯髏《ころ》殘骨の露呈せる處に、葡萄の覃《は》ひ來りて、半ばそを覆ひたるは、心ありてこの悲慘の景を見せじとするにやとさへ思はれたり。
我目前には猶突兀《とつこつ》たる山骨の立てるあり。物寂しく獨り聳えたる塔の尖《さき》に水鳥の群立《むらた》ち來らんを候《うかゞ》ひて網を張りたるあり。脚底の波打際を見おろせばサレルノ[#「サレルノ」に二重傍線]の市《まち》の人家|碁子《きし》の如く列《つらな》れり。而して會※[#二の字点、1−2−22]《たま/\》その街を過ぐる一行ありしがために、此一|寰區《くわんく》は特に明かなる印象を我心裡に留むることを得たり。角|極《きはめ》て長き二頭の白牛一車を輓《ひ》けり。車上には山賊四人を縛して載せたるが、その眼は猛獸の如く、炯々《けい/\》として人を射る。瞳黒く貌《かほ》美しきカラブリア[#「カラブリア」に二重傍線]人あり。銃を負ひて、車の兩邊を騎行せり。
旅の初一日の宿をばサレルノ[#「サレルノ」に二重傍線]と定めたり。この中古學問の淵叢《えんそう》たる市に近づくとき、ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]のいふやう。※[#「糸+賺のつくり」、第3水準1−90−17]帛《けんぱく》は黄變《わうへん》すべし。サレルノ[#「サレルノ」に二重傍線]騷壇の光は今既に滅せり。されど自然といふ大著述は歳ごとに鏤梓《るし》せらる。予はアントニオ[#「アントニオ」に傍線]と同じく、師とするところ此に在りて彼に在らずといふ。われ答へて、自然|固《もと》より師とすべし、只だ書册も亦未だ棄つべからず、譬へば酒飯の並びに廢すべからざるが如しといひしに、フランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]の君は我言を是なりとし給ひぬ。
此時フアビアニ[#「フアビアニ」に傍線]公子傍《かたはら》より、アントニオ[#「アントニオ」に傍線]よ、言ふは易く行ふは難きものぞ、羅馬に歸りての後は、その詞の僞ならぬを明にせよといふ。羅馬の一語は我が思ひ掛けざるところなりき。我は心の中に、復た羅馬には往かじと誓ひながら、詞に出して爭はんとはせざりき。
公子は更に語を繼ぎてさま/″\の事をいひ出で、人々のこれに答へなどするひまに一行は早くサレルノ[#「サレルノ」に二重傍線]に到りぬ。我等は先づ一寺院に入りたり。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]進み出でゝいふやう。こゝにてはわれ案内者たることを得べし。これはサレルノ[#「サレルノ」に二重傍線]にてみまかり給ひし法皇グレゴリヨ[#「グレゴリヨ」に傍線]七世(獨帝と爭ひて位を逐《お》はれ、千八十五年此に終りぬ)の遺骨を收めし龕《がん》なり。その大理石像はかしこなる贄卓《したく》の上に立てり。さてこの石棺は歴山《アレキサンドル》大帝の遺骸を藏《をさ》むといふ。公子。何とかいふ、歴山大帝の躯《むくろ》こゝにありとや。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]、我が聞きしは然《しか》なりき、さにはあらずや、と寺僮《じどう》を顧みれば、まことに仰の如しと答ふ。われつら/\棺を見て、否、そは誤りなるべし、歴山大帝の躯こゝに在りといはんは、歴史を蔑《ないがしろ》にするに近し、この浮彫の圖樣は大帝凱旋の行列なれば、かゝる誤を傳へしにや、見給へ、かしこなる寺門に近き處にもこれに似たる石棺ありて、その圖様は酒神《バツコス》の行列なり、彼棺は素《も》とペスツム[#「ペスツム」に二重傍線]に在りしを、こゝに移してサレルノ[#「サレルノ」に二重傍線]の一貴人の永眠の處となし、その石像をば傍に立てたり、此類《このたぐひ》の棺槨《くわんくわく》いと多し、大帝の事を圖したりとて其屍を藏《をさ》むとは定め難しといふ。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]は唯だ冷かに、現《げ》にさることあらんも計られずとのみ答へしに、フランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]の君我耳に付きて、自ら怜悧《さかし》がりて人を屈するは惡しき習《ならひ》ぞと宣《のたま》ふ。我は頭を低《た》れて人々の後《しりへ》に退きぬ。
晩鐘の鳴る頃、公子とジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]とは散歩にとて出で、我は夫人に侍して客舍の軒に坐し居たり。海づらは乳《ち》の如き白色に見え、熔巖石を敷きたる街路より薔薇紅《ばらいろ》にかゞやける地平線のあたりまで、いと廣やかに晴れ渡り、波打際は藍色にきらめけり。かゝる色彩の配合は羅馬の無きところなり。われ、めでたき彩繪《いろゑ》には候はずやと云へば、夫人、見よ、雲は今「フエリチツシイマ、ノツテ」(幸ある夜を祈る)を言ふ時ぞ、と山嶽の方を指ざし給ふ。橄欖《オリワ》の林に隱顯せる富人の別業《べつげふ》の邊よりは※[#「二点しんにょう+向」、第3水準1−92−55]《はるか》に高く、二塔の巓を摩する古城よりは又※[#「二点しんにょう+向」、第3水準1−92−55]に低く、一叢《ひとむら》の雲は山腹に棚引きたり。われ。彼雲の中に棲《す》みて、大海の潮《しほ》の漲落《みちひ》を觀ばや。夫人。さなり。かしこに住みて即興詩を吟ぜよ。唯だ聽くものなきが恨なるべし。われ。のたまふ如く、其恨は思ひ棄て難し。詩人の喝采を受くるは草木の日光を受くると同じ。囹圄《ひとや》のタツソオ[#「タツソオ」に傍線]が身を害《そこな》ひしは、獨り戀路の關を据ゑられしが爲めのみにあらず。その詩の爲めに知音《ちいん》を得ざるを恨みしが爲めなり。夫人。われは今おん身が上を語れり。タツソオ[#「タツソオ」に傍線]が事を言はず。われ。タツソオ[#「タツソオ」に傍線]は詩人なり。されば好き例《ためし》と思ひて引き出でしまでに候ふ。夫人。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]よ、さてはおん身は自ら詩人なりと許す心あるにやあらん。我上を語らんときは、不朽の業《わざ》ある人の名をば呼ばぬぞ好き。おん身は物に感動し易き情ありて、又能くさる情を解するより、直ちに己れの詩人たるを信ぜんとするならん。そは世間幾多の人の具ふる所にして、又能くする所なり。これに惑ひて徒《いたづ》らに思ひ上がりなどせば、生涯の不幸となるべきものぞといふ。われは面の火の如くなれるを覺えて、仰せはさる事ながら、わが自ら深く信ずるところをば包まで申すを聞き給へ、「サン、カルロ」座なる數千の客は我に何の由縁《ゆかり》もなきに、口を齊《ひとし》うして喝采したり、われは惠深き君の我喜を分ち給はんことを忖《はか》りしにと答へたり。夫人。おん身の友は多かるべし。されどまことにおん身の喜を分たんもの我が如きは少からん。おん身の情に厚きこと、心ざまの卑からぬことは、我等よく知りたり。さればこそをぢ君の御腹立をも申解《まうしと》かばやとさへ思ふなれ。おん身には好き稟賦《ひんぷ》あり。學ばゞ一廉《ひとかど》の人物ともなるらん。されど今の儘にては、その才僅かに坐客の耳を悦ばしむるに足りて、未だ世に立ち名を成さんには遑《いとま》あらざるべし。われ。才の拙《つたな》く學の足らざるは、げにおん詞の如くなり。されどわが公衆に對せし時の成功をば、君の親しく視給はねば知らせ參らせんやうなし。只だ君の信ぜさせ給ふと覺しきジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]の君は彼夕劇場にありて、我技を賞し給ひきと申さば足りなん。夫人。おん身はジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]を證人とせんとやいふ。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]は好き紳士なれど、われは其藝術上の批評には重きを置かず。劇場に集ひし一夜の公衆に至りては、いよ/\信ずべからず。おん身若し彼夕もろひとに辱《はづかし》められんには、われ深く憾《うらみ》とすべし。その事なくして畢《をは》りしは、まことに自他の幸なり。おん身が場に上りしは唯だ一夜にして、假名《けみやう》をさへ用ゐぬれば、かゝる夢の如きよしなしごとの久しく人の記憶に殘らん憂はあらじ。三日の後には我等又拿破里に在り。そのあくる日には羅馬へ旅立すべし。羅馬に往きて、おん身の耐忍と勉勵とを見せよ。おん身に眞《まこと》の事を告ぐるは我のみぞとのたまひぬ。
古祠、瞽女《ごぜ》
ペスツム[#「ペスツム」に二重傍線]は宿るべき家もなく、こゝよりかしこへの道は賊などの出沒することもありと聞えければ、翌日《あくるひ》まだ暗きに一行は車に上りぬ。騎馬の憲兵は護衞として車の傍に隨へり。
道の左右には柑子《かうじ》の林ありて、その鬱茂せる状《さま》は深山《みやま》の森にも似たるべし。セラ[#「セラ」に二重傍線]の流を渡るときは、垂柳|月桂《ラウレオ》の澄める水の面に影を倒せるを見き。荒蕪せる丘陵の間、時に穀《たなつもの》の長ぜる田圃あり。道に沿ひて蘆薈《ろくわい》霸王樹《サボテン》など野生したるが、皆ところ得がほに延び育ちたり。
既にして一行は一古祠の前に立てり。即ち二千年前の建立《こんりふ》にして、その樣式|希臘《ギリシア》時代の粹と稱せらる。この祠、見苦しき酒店一軒、貧しげなる人家三棟、籘《とう》もて作れる小屋三つ四つ。是れ世界に名高きペスツム[#「ペスツム」に二重傍線]の村なり。いにしへは此村|薔薇《さうび》に名あり。見渡す限り紅《くれなゐ》の霞に掩《おほ》はれたりし由《よし》物に見えたれども、今は一株をだに留めず。身邊|渾《すべ》て是れ緑にして、其色遙に山嶽に連《つらな》れり。平地には菫花《すみれ》多く、薊《あざみ》その外の雜草の間に咲きひろごりたり。自然の力|餘《あまり》ありて人間の工《たくみ》を加へざる處なれば、草といふ草、木といふ木、おのがじし生ひ榮ゆるが中に、蘆薈、無花果《いちじゆく》、色紅なる「ピユレトルム、インヂクム」などの枝葉《えだは》さしかはしたる、殊に目ざましくぞ覺えられし。
シチリア[#「シチリア」に二重傍線]の自然、その豐饒《ほうねう》の一面と荒蕪の一面とはこゝにあり。シチリア[#「シチリア」に二重傍線]の希臘古祠はこゝにあり。而してシチリア[#「シチリア」に二重傍線]の貧窶《ひんく》もまたこゝにあり。一行のめぐりには一群の乞丐《かたゐ》來り集ひたり。その状《さま》南海諸島の蕃人にも似たるべし。男子は長き羊の皮を、毛を表にして身に纏へり。暗褐色なる雙脚には靴を穿かず、剪《き》らざる髮は黒き面の邊に翻《ひるがへ》り垂れたり。妬《ねた》ましき迄に直《すぐ》に美しく生ひ立ちたる娘たちのこれに隨へるを見るに、そのさま半ば赤はだかなりといふべし。膝の上まで截《き》り開きたる短衣は裂け綻《ほころ》び、鬆《ゆる》く肩に纏へる外套めきたる褐色《かちいろ》の布は垢つきよごれ、長き黒髮をば項《うなじ》に束ね、美しき目よりは恐ろしき光を放てり。
此群に十二歳を踰《こ》えじと見ゆる、すぐれて麗《うるは》しき娘あり。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]となるべき姿にもあらず、さればとて又サンタ[#「サンタ」に傍線]となるべき貌にもあらず。前にアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が物語に聞きつる、メヂチ[#「メヂチ」に傍線]家の愛憐[#「愛憐」は底本では「受憐」]神女の像は、かゝる面影あるにはあらずやと思はる。實に此|少女《をとめ》の清き容《かたち》は、人をして囘抱せんと欲せしむるものにあらで、却りて膜拜《もはい》せんと欲せしむるものなり。
この少女は少し群を離れて立てり。褐《かち》色なる方巾《はうきん》偏肩《へんけん》より垂れたるが、巾《きれ》を纏《まと》はざる方《かた》の胸と臂《ひぢ》とは悉く現はれたり。雙脚には何物をも着けざりき。かくはかなき身と生れても、流石《さすが》に粧《よそほ》ひ飾る心をば持ちたるにや、髮平かに結ひ上げて、一束の菫花《すみれ》を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13
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