握って死んでいた。頸動脉《けいどうみゃく》が断たれて、血が夥《おびただ》しく出ている。火鉢の火には灰が掛けて埋《うず》めてある。電灯には血の痕《あと》が附いている。佐野さんがお蝶の吭《のど》を切ってから、明りを消して置いて、自分が死んだのだろうと、刑事係が云った。佐野さんの手で書いて連署した遺書が床の間に置いてあって、その上に佐野さんの銀時計が文鎮にしてあった。お蝶の名だけはお蝶が自筆で書いている。文面の概略はこうである。「今年の暮に機屋一家は破産しそうである。それはお蝶が親の詞《ことば》に背《そむ》いた為めである。お蝶が死んだら、債権者も過酷な手段は取るまい。佐野も東京には出て見たが、神経衰弱の為めに、学業の成績は面白くなく、それに親戚から長く学費を給してくれる見込みもないから、お蝶が切に願うに任せて、自分は甘んじて犠牲になる。」書いてある事は、ざっとこんな筋であったそうだ。
 川桝へ行く客には、お金が一人も残さず話すのだから、この話を知っている人は世間に沢山あるだろう。事によると、もう何かに書いて出した人があるかも知れない。



底本:「森鴎外集 新潮日本文学1」新潮社
   1971(昭和46)年8月12日発行
入力:柿澤早苗
校正:湯地光弘
1999年10月16日公開
2006年4月30日修正
青空文庫作成ファイル:
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