窓の障子かも知れないわ。表の手水場のは硝子《ガラス》戸だけれども、裏のは紙障子だわね。」
「そうでしょうか。いやあねえ。わたしもう手水なんか我慢して、二階へ帰って寝ようかしら。」
「馬鹿な事をお言いでない。わたしそんなお附合いなんか御免だわ。帰りたけりゃあ、花ちゃんひとりでお帰り。」
「ひとりではこわいから、そんなら一しょに行ってよ。」
 二人は又歩き出した。一足歩くごとに、ひゅうひゅうと云う音が心持近くなるようである。障子の穴に当たる風の音だろうとは、二人共思っているが、なんとなく変な音だと云う感じが底にあって、それがいつまでも消えない。
 お花は息を屏《つ》めてお松の跡に附いて歩いているが、頭に血が昇って、自分の耳の中でいろいろな音がする。それでいて、ひゅうひゅうと云う音だけは矢張際立って聞えるのである。お松も余り好い気持はしない。お花が陽にお松を力にしているように、お松も陰にはお花を力にしているのである。
 便所が段々近くなって、電灯の小さい明りの照し出す範囲が段々広くなって来るのがせめてもの頼みである。
 二人はとうとう四畳半の処まで来た。右手の壁は腰の辺から硝子戸になっているので、始《はじめ》て外が見えた。石灯籠の笠には雪が五六寸もあろうかと思う程積もっていて、竹は何本か雪に撓《たわ》んで地に着きそうになっている。今立っている竹は雪が堕《お》ちた跡で、はね上がったのであろう。雪はもう降っていなかった。
 二人は覚えず足を止めて、硝子戸の外を見て、それから顔を見合わせた。二人共相手の顔がひどく青いと思った。電灯が小さいので、雪明りに負けているからである。
 ひゅうひゅうと云う音は、この時これまでになく近く聞えている。
「それ御覧なさい。あの音は手水場でしているのだわ。」お松はこう云ったが、自分の声が不断と変っているのに気が附いて、それと同時にぞっと寒けがした。
 お花はこわくて物が言えないのか、黙って合点《がってん》々々をした。
 二人は急いで用を足してしまった。そして前に便所に這入る前に立ち留まった処へ出て来ると、お松が又立ち留まって、こう云った。
「手水場の障子は破れていなかったのねえ。」
「そう。わたし見なかったわ。それどこじゃないのですもの。さあ、こんなとこにいないで、早く行きましょう。」お花の声は震えている。
「まあ、ちょいとお待ちよ。どうも変だわ
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