。
木村は少しうるさいと思ったらしく顔を蹙《しか》めたが、直ぐ思い直した様子でこう云った。「そう。僕だって別に研究したのではありませんが、近代思想の支流ですから、あらまし知っています。五十年余り前(1856)に死んだ Max《マックス》 Stirner《スチルネル》 が極端な個人主義を立てたのが端緒になっていると、一般に認められているようです。次は四十年余り前(1865)に死んだ Proudhon《プルウドン》 で、Kropotkin《クロポトキン》 が無政府主義の父と云ったのが当っているかどうかは別として、さっきも言ったように、名附親だということだけは確かです。次は始て無政府主義を実行しようとした Michael《ミカエル》 Bakunin《バクニン》 で、三十年余り前(1876)に死んでいます。それからこっちで名を知られているのは、ロンドンに逃げて行っていて、もう七十近くになっている(1842生れ)Peter《ペエテル》 Alexejewitsch《アレクセエウィッチ》 Kropotkin《クロポトキン》 で、その外には亜米利加《アメリカ》に Tucker《タッカア》 のような人物があるだけでしょう。」
「なかなか精《くわ》しいね」と、犬塚がまた冷かした。
熱心に聞いていた山田がまた口を出した。「一体その二三人の大頭《おおあたま》はどんな人間かねえ。」
木村は右の肱《ひじ》を卓に衝《つ》いて、頭を支えて、やや退屈らしい様子をして話している。
「スチルネルは哲学史上に大影響を与えている人で、無政府主義者と云われている人達と一しょにせられては可哀相だ。あれは本名を Johann《ヨハン》 Kaspar《カスパル》 Schmidt《シュミット》 と云って、伯林《ベルリン》で高等学校の教師をしていた。有名な、唯一者とその所有を出す時に、随分極端な議論だから、本名を署せずに出したのだ。しかし今では Reclam《レクラム》 版になっていて、誰でも読む。Proudhon《プルウドン》 は 〔Besanc,on《ベサンソン》〕 の貧乏人の子で、小さい時に、活字拾いまでしたことがあるそうだ。それでもとうとう巴里《パリイ》で議員に挙げられるまで漕《こ》ぎ付けた。大した学者ではない。スチルネルと同じように、Hegel《ヘエゲル》 を本尊にしてはいるが、ヘエゲルの本を本当に読んだのではないと、後で自分で白状している。スチルネルが鋭い論理で、独創の議論をしたのとは違って、大抵前人の言った説を誇張したに過ぎない。有名な、占有は盗みだという語《ことば》なんぞも、プルウドンが生れるより二十年も前に、Brissot《ブリゾオ》 が云っている。プルウドンという人は先ず弁論家というべきだろう。それからバクニンは、莫斯科《モスコオ》と彼得堡《ペテルブルグ》との中間にある Prjamuchino《プリヤムヒノ》 で、貴家の家に生れた人で、砲兵の士官になったが、生れ附き乱を好むという質《たち》なので、間もなく軍籍を脱して、欧羅巴中を遍歴して、到る処に騒動を起させたものだ。本国でシベリアへ流された外に、諸方で獄に繋《つな》がれたことがある。無政府党事件としては一番大きい Jura《ユラ》 の時計職人の騒動も、この人が煽動《せんどう》したのだ。瑞西《スウィス》にいるうちに、Bern《ベルン》 で心臓病になって死んだ。それからクロポトキンだが、あれは Smolensk《スモレンスク》 公爵の息子に生れて、小さい時は宮中で舎人《とねり》を勤めていた。それからカザアキ騎兵の士官になってシベリアへ遣《や》られて、五年間在勤していて、満州まで廻って見た。その頃種々な人に接触した結果、無政府主義になったのだそうだ。それから彼得堡の大学に這入って、地学を研究した。自分でも学術上に価値のある事業は、三十歳の時に刊行した亜細亜《アジア》地図だと云っている。Jura《ユラ》 へ行ったのも、英国で地学上の用務を嘱托《しょくたく》せられて行ったのだ。亜米利加のタッカアなんぞはプルウドンの翻訳をしている位のもので、大した人物ではない。」
木村が暫く黙っていると、犬塚が云った。「クロポトキンは別品《べっぴん》の娘を持っているというじゃないか。」
「そうです。大相世間で同情している女のようですね」と、木村は答えて、また黙ってしまった。
山田が何か思い出したという様子で云った。「こん度の連中は死刑になりたがっているから、死刑にしない方が好いというものがあるそうだが、どういうものだろう。」
敷島《しきしま》の烟《けむり》を吹いていた犬塚が、「そうさ、死にたがっているそうだから、監獄で旨い物を食わせて、長生をさせて遣るが好《よ》かろう」と云って笑った。そして木村の方へ向いて、「これまで死刑になった奴《やつ》は、献身者だというので、ひどく崇《あが》められているというじゃないか」と云った。
木村は「Ravachol《ラワコオル》―Vaillant《ワイヤン》―Henry《アンリイ》―Caserio《カゼリオ》」と数を読むように云って、「随分盛んに主義の宣伝に使われているようですね」と言い足した。
「どれ」と云って、犬塚が紙巻の燃えさしを灰吹の中に投げたのを合図に、三人は席を起った。
外《ほか》を片付けてしまって待っていた、まかないの男が、三人の前にあった茶碗や灰吹を除《の》けて、水をだぶだぶ含ませた雑巾《ぞうきん》で、卓《たく》の上を撫《な》で始めた。
[#地から1字上げ](明治四十三年十二月)
底本:「普請中 青年 森鴎外全集2」ちくま文庫、筑摩書房
1995(平成7)年7月24日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版森鴎外全集」筑摩書房
1971(昭和46)年4月〜9月刊
入力:鈴木修一
校正:mayu
2001年7月31日公開
2006年4月30日修正
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