書いて貰った」
「そんなら好かろう。随分話のしにくい男だというから、ふいと行ったって駄目だろうと思ったのだ。もうそろそろ十時になるだろう。そこいらまで一しょに行《い》こう」
二人は又狭い横町を抜けて、幅の広い寂しい通を横切って、純一の一度渡った、小川に掛けた生木《なまき》の橋を渡って、千駄木下《せんだぎした》の大通に出た。菊見に行くらしい車が、大分続いて藍染橋《あいそめばし》の方から来る。瀬戸が先へ立って、ペンキ塗の杙《くい》にゐで井病院と仮名違《かなちがい》に書いて立ててある、西側の横町へ這入るので、純一は附いて行《ゆ》く。瀬戸が思い出したように問うた。
「どこにいるのだい」
「まだ日蔭町の宿屋にいる」
「それじゃあ居所が極《き》まったら知らせてくれ給えよ」
瀬戸は名刺を出して、動坂《どうざか》の下宿の番地を鉛筆で書いて渡した。
「僕はここにいる。君は路花の処へ入門するのかね。盛んな事を遣って盛んな事を書いているというじゃないか」
「君は読まないか」
「小説はめったに読まないよ」
二人は藪下へ出た。瀬戸が立ち留まった。
「僕はここで失敬するが、道は分かるかね」
「ここはさっき通った処だ」
「それじゃあ、いずれその内」
「左様《さよう》なら」
瀬戸は団子坂《だんござか》の方へ、純一は根津権現の方へ、ここで袂を分かった。
弐
二階の八畳である。東に向いている、西洋風の硝子窓《ガラスまど》二つから、形紙を張った向側《むこうがわ》の壁まで一ぱいに日が差している。この袖浦館という下宿は、支那《しな》学生なんぞを目当にして建てたものらしい。この部屋は近頃まで印度《インド》学生が二人住まって、籐《とう》の長椅子の上にごろごろしていたのである。その時|廉《やす》い羅氈《らせん》の敷いてあった床に、今は畳が敷いてあるが、南の窓の下には記念の長椅子が置いてある。
テエブルの足を切ったような大机が、東側の二つの窓の間の処に、少し壁から離して無造作に据えてある。何故《なぜ》窓の前に置かないのだと、友達がこの部屋の主人に問うたら、窓掛を引けば日が這入らない、引かなければ目《ま》ぶしいと云った。窓掛の白木綿で、主人が濡手《ぬれて》を拭いたのを、女中が見て亭主に告口をしたことがある。亭主が苦情を言いに来た処が、もう洗濯《せんだく》をしても好《い》い頃だと、あべこべに叱って恐れ入らせたそうだ。この部屋の主人は大石狷太郎である。
大石は今顔を洗って帰って来て、更紗《さらさ》の座布団の上に胡坐をかいて、小さい薬鑵《やかん》の湯気を立てている火鉢を引き寄せて、敷島《しきしま》を吹かしている。そこへ女中が膳を持って来る。その膳の汁椀《しるわん》の側《そば》に、名刺が一枚載せてある。大石はちょいと手に取って名前を読んで、黙って女中の顔を見た。女中はこう云った。
「御飯を上がるのだと申しましたら、それでは待っていると仰《おっ》しゃって、下にいらっしゃいます」
大石は黙って頷《うなず》いて飯を食い始めた。食いながら座布団の傍《そば》にある東京新聞を拡げて、一面の小説を読む。これは自分が書いているのである。社に出ているうちに校正は自分でして置いて、これだけは毎朝一字残さずに読む。それが非常に早い。それからやはり自分の担当している附録にざっと目を通す。附録は文学欄で填《うず》めていて、記者は四五人の外《ほか》に出《い》でない。書くことは、第一流と云われる二三人の作の批評だけであって、その他の事には殆ど全く容喙《ようかい》しないことになっている。大石自身はその二三人の中《うち》の一人なのである。飯が済むと、女中は片手に膳、片手に土瓶を持って起《た》ちながら、こう云った。
「お客様をお通し申しましょうか」
「うむ、来ても好《い》い」
返事はしても、女中の方を見もしない。随分そっけなくして、笑談《じょうだん》一つ言わないのに、女中は飽くまで丁寧にしている。それは大石が外の客の倍も附届《つけとどけ》をするからである。窓掛一件の時亭主が閉口して引っ込んだのも、同じわけで、大石は下宿料をきちんと払う。時々は面倒だから来月分も取って置いてくれいなんぞと云うことさえある。袖浦館の上から下まで、大石の金力に刃向うものはない。それでいて、着物なんぞは随分質素にしている。今着ている銘撰《めいせん》の綿入と、締めている白縮緬《しろちりめん》のへこ帯とは、相応に新しくはあるが、寝る時もこのまま寝て、洋服に着換えない時には、このままでどこへでも出掛けるのである。
大石が東京新聞を見てしまって、傍に畳《かさ》ねて置いてある、外の新聞二三枚の文学欄だけを拾読《ひろいよみ》をする処へ、さっきの名刺の客が這入ってきた。二十二三の書生風の男である。縞《しま》の綿入に小倉袴を穿いて、羽織は着ていない。名刺には新思潮記者とあったが、実際この頃の真面目な記者には、こういう風なのが多いのである。
「近藤時雄です」
鋭い目の窪《くぼ》んだ、鼻の尖《とが》った顔に、無造作な愛敬を湛《たた》えて、記者は名告《なの》った。
「僕が大石です」
目を挙げて客の顔を見ただけで、新聞は手から置かない。用があるなら、早く言ってしまって帰れとでも云いそうな心持が見える。それでも、近藤の顔に初め見えていた微笑は消えない。主人が新聞を手から置くことを予期しないと見える。そしてあらゆる新聞雑誌に肖像の載せてある大石が、自分で名を名告ったのは、全く無用な事であって、その無用な事をしたのは、特に恩恵を施してくれたのだ位に思っているのかも知れない。
「先生。何かお話は願われますまいか」
「何の話ですか」
新聞がやっと手を離れた。
「現代思想というようなお話が伺われると好《い》いのですが」
「別に何も考えてはいません」
「しかし先生のお作に出ている主人公や何ぞの心持ですな。あれをみんなが色々に論じていますが、先生はどう思っていらっしゃるか分らないのです。そういう事をお話なすって下さると我々青年は為合《しあわ》せなのですが。ほんの片端《かたはし》で宜《よろ》しいのです。手掛りを与えて下されば宜しいのです」
近藤は頻《しき》りに迫っている。女中が又名刺を持って来た。紹介状が添えてある。大石は紹介状の田中|亮《あきら》という署名と、小泉純一持参と書いてある処とを見たきりで、封を切らずに下に置いて、女中に言った。
「好《い》いからお通《とおり》なさいと云っておくれ」
近藤は肉薄した。
「どうでしょう、先生、願われますまいか」
梯子《はしご》の下まで来て待っていた純一は、すぐに上がって来た。そして来客のあるのを見て、少し隔った処から大石に辞儀をして控えている。急いで歩いて来たので、少し赤みを帯びている顔から、曇のない黒い瞳が、珍らしい外の世界を覗いている。大石はこの瞳の光を自分の顔に注がれたとき、自分の顔の覚えず霽《はれ》やかになるのを感じた。そして熱心に自分の顔を見詰めている近藤にこう云った。
「僕の書く人物に就いて言われるだけの事は、僕は小説で言っている。その外に何があるもんかね。僕はこの頃長い論文なんかは面倒だから読まないが、一体僕の書く人物がどうだと云っているかね」
始めて少し内容のあるような事を言った。それに批評家が何と云っていると云うことを、向うに話させれば、勢《いきおい》その通だとか、そうではないとか云わなくてはならなくなる。今来た少年の、無垢《むく》の自然をそのままのような目附を見て、ふいと※[#「※」は「革+疆のつくり」、第3水準1−93−81、17−12]《たづな》が緩んだなと、大石は気が附いたが、既に遅かった。
「批評家は大体こう云うのです。先生のお書になるものは真の告白だ。ああ云う告白をなさる厳粛な態度に服する。Aurelius Augustinus《オオレリアス オオガスチヌス》だとか、Jean Jaques Rousseau《ジャン ジャック ルソオ》だとか云うような、昔の人の取った態度のようだと云うのです」
「難有《ありがた》いわけだね。僕は今の先生方の論文も面倒だから読まないが、昔の人の書いたものも面倒だから読まない。しかし聖Augustinus《オオガスチヌス》は若い時に乱行を遣って、基督《クリスト》教に這入ってから、態度を一変してしまって、fanatic《ファナチック》な坊さんになって懺悔《ざんげ》をしたのだそうだ。Rousseau《ルソオ》は妻と名の附かない女と一しょにいて、子が出来たところで、育て方に困って、孤児院へ入れたりなんぞしたことを懺悔したが、生れつき馬鹿に堅い男で、伊太利《イタリイ》の公使館にいた時、すばらしい別品《べっぴん》の処へ連れて行《い》かれたのに、顫え上ってどうもすることが出来なかったというじゃあないか。僕の書いている人物はだらしのない事を遣っている。地獄を買っている。あれがそんなにえらいと云うのかね」
「ええ。それがえらいと云うのです。地獄はみんなが買います。地獄を買っていて、己《おれ》は地獄を買っていると自省する態度が、厳粛だと云うのです」
「それじゃあ地獄を買わない奴は、厳粛な態度は取れないと云うのかね」
「そりゃあ地獄も買うことの出来ないような偏屈な奴もありましょう。買っていても、矯飾して知らない振をしている奴もありましょう。そういう奴は内生活が貧弱です。そんな奴には芸術の趣味なんかは分かりません。小説なんぞは書けません。懺悔の為様がない。告白をする内容がない。厳粛な態度の取りようがないと云うのです」
「ふん。それじゃあ偏屈でもなくって、矯飾もしないで、芸術の趣味の分かる、製作の出来る人間はいないと云うのかね」
「そりゃあ、そんな神のようなものが有るとも無いとも、誰《たれ》も断言はしていません。しかし批評の対象は神のようなものではありません。人間です」
「人間は皆地獄を買うのかね」
「先生。僕を冷かしては行《い》けません」
「冷かしなんぞはしない」大石は睫毛《まつげ》をも動かさずに、ゆったり胡坐をかいている。
帳場のぼんぼん時計が、前触《まえぶれ》に鍋《なべ》に物の焦げ附くような音をさせて、大業《おおぎょう》に打ち出した。留所《とめど》もなく打っている。十二時である。
近藤は気の附いたような様子をして云った。
「お邪魔をいたしました。又伺います」
「さようなら。こっちのお客が待たせてあるから、お見送りはしませんよ」
「どう致しまして」近藤は席を立った。
大石は暫くじっと純一の顔を見ていて、気色《けしき》を柔げて詞を掛けた。
「君ひどく待たせたねえ。飯前じゃないか」
「まだ食べたくありません」
「何時に朝飯を食ったのだい」
「六時半です」
「なんだ。君のような壮《さか》んな青年が六時半に朝飯を食って、午《ひる》が来たのに食べたくないということがあるものか。嘘《うそ》だろう」
語気が頗る鋭い。純一は一寸不意に出られてまごついたが、主人の顔を仰いでいる目は逸《そら》さなかった。純一の心の中《うち》では、こういう人の前で世間並の空辞儀《からじぎ》をしたのは悪かったと思う悔やら、その位な事をしたからと云って、行《い》きなり叱ってくれなくても好さそうなものだと思う不平やらが籠《こ》み合って、それでまごついたのである。
「僕が悪うございました。食べたくないと云ったのは嘘です」
「はははは。君は素直で好《い》い。ここの内の飯は旨《うま》くはないが、御馳走しよう。その代り一人で食うのだよ。僕はまだ朝飯から二時間立たないのだから」
誂《あつら》えた飯は直ぐに来た。純一が初《はじめ》に懲りて、遠慮なしに食うのを、大石は面白そうに見て、煙草を呑《の》んでいる。純一は食いながらこんな事を思うのである。大石という人は変っているだろうとは思ったが、随分勝手の違いようがひどい。さっきの客が帰った迹《あと》で、黙っていてくれれば、こっちから用事を言い出すのであった。飯を食わせる程なら、何の用事があって来たかと問うても好さそうなものだに黙っていられるから、
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