る。特別な女中は定めて二階の客をもてなしているのであろう。
二階はなかなか賑《にぎ》やかである。わざわざ大晦日《おおみそか》の夜を騒ぎ明かす積りで来たのかも知れない。三味線の音《ね》が絶えずする。女が笑う。年増らしい女の声で、こんな呪文《じゅもん》のようなものを唱える。「べろべろの神さんは、正直な神さんで、おさきの方へお向きやれ。どこへ盃《さかずき》さあしましょ。ここ等《ら》か、ここ等か」この呪文は繰り返し繰り返しして唱えられる。一度唱える毎に、誰かが杯《さかずき》を受けるのであろう。
純一は取ってある床の中に潜り込んで、じっとしている。枕に触れて、何物をか促し立てるように、頸《くび》の動脈が響くので、それを避けようと思って寝返りをする。その脈がどうしても響く。動悸《どうき》が高まっているのであろう。それさえあるに、べろべろの神さんがしゅうねく祟《たた》って、呪文はいよいよ高く唱えられるのである。
純一は何事をも忘れて寐《ね》ようと思ったが、とても寐附かれそうにはない。過度に緊張した神経が、どんな微細な刺戟にも異様に感応《かんおう》する。それを意識が丁度局外に立って観察している
前へ
次へ
全282ページ中268ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング