ヤの第三輪ではあるまいかという疑いが起って、それが間断なく自分を刺戟して、とうとう席に安んぜざらしむるに至った。
「僕は今夜はもうお暇《いとま》をします」純一は激した心を声にあらわすまいと努めてこう云って、用ありげに時計を出して見ながら座を起った。実は時計の鍼《はり》はどこにあるか、目にも留まらず意識にも上《のぼ》らなかったのである。
二十四
福住の戸口を足早に出て来た純一は、外へ出ると歩度を緩めて、万翠楼の外囲いに沿うて廻って、坂井夫人のいる座敷の前に立ち留まった。この棟《むね》だけ石垣を高く積み上げて、中二階のように立ててある。まだ雨戸が締めてないので、燈火《ともしび》の光が障子にさしている。純一は暫く障子を見詰めていたが、電燈の位置が人の据わっている処より、障子の方へ近いと見えて、人の影は映っていなかった。
暇乞《いとまごい》をして出る時には、そんな事を考える余裕はなかったが、今になって思えば、自分が座敷を立つ時、岡村も一しょに暇乞をすべきではなかっただろうか。それとも子供のような自分なので、それ程の遠慮もしなかったのか。それとも自分を見くびる見くびらないに拘《
前へ
次へ
全282ページ中266ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング