る、製作の出来る人間はいないと云うのかね」
「そりゃあ、そんな神のようなものが有るとも無いとも、誰《たれ》も断言はしていません。しかし批評の対象は神のようなものではありません。人間です」
「人間は皆地獄を買うのかね」
「先生。僕を冷かしては行《い》けません」
「冷かしなんぞはしない」大石は睫毛《まつげ》をも動かさずに、ゆったり胡坐をかいている。
 帳場のぼんぼん時計が、前触《まえぶれ》に鍋《なべ》に物の焦げ附くような音をさせて、大業《おおぎょう》に打ち出した。留所《とめど》もなく打っている。十二時である。
 近藤は気の附いたような様子をして云った。
「お邪魔をいたしました。又伺います」
「さようなら。こっちのお客が待たせてあるから、お見送りはしませんよ」
「どう致しまして」近藤は席を立った。
 大石は暫くじっと純一の顔を見ていて、気色《けしき》を柔げて詞を掛けた。
「君ひどく待たせたねえ。飯前じゃないか」
「まだ食べたくありません」
「何時に朝飯を食ったのだい」
「六時半です」
「なんだ。君のような壮《さか》んな青年が六時半に朝飯を食って、午《ひる》が来たのに食べたくないということがあ
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