的もなく外に出たくなって飛び出して、忙がしげに所々《しょしょ》を歩いていて、その途中で自分が何物かを求めているのに気が付いて、あのGautier《ゴオチエエ》のMademoiselle Maupin《マドモアセユ モオパン》にある少年のように女を求めているのに気が付いて、自ら咎《とが》めはしなかったが、自ら嘲《あざけ》ったことがある。あの時の心持は妙な心持であった。或るaventure《アヴァンチュウル》に遭遇して見たい。その相手が女なら好《い》い。そしてその遭遇に身を委《ゆだ》ねてしまうか否かは疑問である。その刹那《せつな》に於ける思慮の選択か、又は意志の判断に待つのである。自分の体は愛惜すべきものである。容易に身を委ねてしまいたくはない。事に依ったら、女に遇《あ》って、女が己に許すのに、己は従わないで、そして女をなるべく侮辱せずに、なだめて慰藉《いしゃ》して別れたら、面白かろう。そうしたら、或は珍らしい純潔な交《まじわり》が成り立つまいものでもない。いやいや。それは不可能であろう。西洋の小説を見るのに、そんな場合には女は到底侮辱を感ぜずにはいないものらしい。又よしや一時純潔な交のようなものが出来ても、それはきっと似て非なるもので、その純潔は汚涜《おとく》の繰延《くりのべ》に過ぎないだろう。所詮そうそう先の先までは分かるものではない。とにかくアヴァンチュウルに遭遇して見てからの事である。まあ、こんな風な思量が、半ば意識の閾《しきい》の下に、半ばその閾を踰《こ》えて、心の中に往来していたことがある。そういう時には、己はそれに気が付いて、意識が目をはっきり醒《さ》ますと同時に、己はひどく自ら恥じた。己はなんという怯懦な人間だろう。なぜ真の生活を求めようとしないか。なぜ猛烈な恋愛を求めようとしないか。己はいくじなしだと自ら恥じた。
 しかしとにかく内面からの衝動はあった。そして外面からの誘惑もないことはなかった。己は小さい時から人に可哀《かわゆ》がられた。好《い》い子という詞が己の別名のように唱えられた。友達と遊んでいると、年長者、殊に女性の年長者が友達の侮辱を基礎にして、その上に己の名誉の肖像を立ててくれた。好い子たる自覚は知らず識《し》らずの間に、己の影を顧みて自ら喜ぶ情を養成した。己のvanite[#最後の「e」は「´」付き]《ヴァニテエ》を養成した。それから己は単に自分の美貌を意識したばかりではない。己は次第にそれを利用するようになった。己の目で或る見かたをすると、強情な年長者が脆《もろ》く譲歩してしまうことがある。そこで初めは殆ど意識することなしに、人の意志の抗抵を感ずるとき、その見かたをするようになった。己は次第にこれが媚《こび》であるということを自覚せずにはいられなかった。それを自覚してからは、大丈夫《だいじょうふ》たるべきものが、こんな宦官《かんがん》のするような態度をしてはならないと反省することもあったが、好い子から美少年に進化した今日も、この媚が全くは無くならずにいる。この媚が無形の悪習慣というよりは、寧《むし》ろ有形の畸形《きけい》のように己の体に附いている。この媚は己の醒めた意識が滅《ほろぼ》そうとした為めに、却ってraffine[#最後の「e」は「´」付き]《ラフィネエ》になって、無邪気らしい仮面を被って、その蔭に隠れて、一層威力を逞くしているのではないかとも思われるのである。そして外面から来る誘惑、就中《なかんずく》異性の誘惑は、この自ら喜ぶ情と媚とが内応をするので、己の為めには随分|防遏《ぼうあつ》し難いものになっているに相違ないのである。
 今日の出来事はこう云う畠に生えた苗に過ぎない。
 己はこの出来事のあったのを後悔してはいない。なぜというに、現社会に僅有絶無《きんゆうぜつむ》というようになっているらしい、男子の貞操は、縦《たと》い尊重すべきものであるとしても、それは身を保つとか自ら重んずるとかいう利己主義だというより外に、何の意義をも有せざるように思うからである。そういう利己主義は己にもある。あの時己は理性の光に刹那の間照されたが、歯牙《しが》の相撃とうとするまでになった神経興奮の雲が、それを忽ち蔽《おお》ってしまった。その刹那の光明の消えるとき、己は心の中で、「なに、未亡人だ」と叫んだ。平賀源内がどこかで云っていたことがある。「人の女房に流し目で見られたときは、頸《くび》に墨を打たれたと思うが好《よ》い。後家は」何やらというような事であった。そんな心持がしたのである。
 とにかく己は利己主義の上から、或る損失を招いたということを自覚する。そしてこれから後《のち》に、又こんな損失を招きたくないということをも自覚する。しかし後悔と名づける程の苦い味を感じてはいないのである。
 苦みはない。そんな
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