ている中へ、意志が容喙《ようかい》した。己は往って見たかった。その往って見たかったというのは、書物も見たかったには相違ない。しかし容赦なく自己を解剖して見たら、どうもそればかりであったとは云われまい。
 己はあの奥さんの目の奥の秘密が知りたかったのだ。
 有楽座から帰ってから、己はあの目を折々思出した。どうかすると半ば意識せずに思い出していて、それを意識してはっと思ったこともある。言わばあの目が己を追い掛けていた。或《あるい》はあの目が己を引き寄せようとしていたと云っても好《い》いかも知れない。実は理性の争《あらそい》に、意志が容喙したと云うのは、主客を顛倒《てんどう》した話で、その理性の争というのは、あの目の磁石力に対する、無力なる抗抵《こうてい》に過ぎなかったかも知れない。
 とうとうその抗抵に意志の打ち勝ってしまったのが今日であった。己は根岸へ出掛けた。
 家《うち》は直ぐ知れた。平らに苅《か》り込んだ※[#「※」は「木+諸」、第3水準1−86−25、71−8]《かし》の木が高く黒板塀の上に聳《そび》えているのが、何かの秘密を蔵しているかと思われるような、外観の陰気な邸であった。石の門柱《もんばしら》に鉄格子の扉が取り附けてあって、それが締めて、脇の片扉だけが開《あ》いていた。門内の左右を低い籠塀《かごべい》で為切《しき》って、その奥に西洋風に戸を締めた入口がある。ベルを押すと、美しい十四五の小間使が出て、名刺を受け取って這入《はい》って、間もなく出て来て「どうぞこちらへ」と案内した。
 通されたのは二階の西洋間であった。一番先に目に附いたのはWatteau《ワットオ》か何かの画を下画に使ったらしい、美しいgobelins《ゴブラン》であった。園《その》の木立の前で、立っている婦人の手に若い男が接吻《せっぷん》している図である。草木の緑や、男女の衣服の赤や、紫や、黄のかすんだような色が、丁度窓から差し込む夕日を受けて眩《まば》ゆくない、心持の好《い》い調子に見えていた。
 小間使が茶をもて来て、「奥様が直ぐにいらっしゃいます」と云って、出て行った。茶を一口飲んで、書籍の立て並べてある棚の前に行って見た。
 書棚の中にある本は大抵己のあるだろうと予期していた本であった。Corneille《コルネイユ》とRacine《ラシイヌ》とMoliere[#「一つ目の「e」は「`」付き」]《モリエエル》とは立派に製本した全集が揃えてある。それからVoltaire《ヴォルテエル》の物やHugo《ユウゴオ》の物が大分ある。
 背革の文字をあちこち見ているところへ、奥さんが出て来られた。
 己は謎らしい目を再び見た。己は誰も云いそうな、簡単で平凡な詞《ことば》と矛盾しているような表情を再びこの女子《おんな》の目の中に見出した。そしてそれを見ると同時に、己のここへ来たのは、コルネイユやラシイヌに引き寄せられたのではなくて、この目に引き寄せられたのだと思った。
 己は奥さんとどんな会話をしたかを記憶しない。この記憶の消え失せたのはインテレクトの上の余り大きい損耗ではないに違いない。しかし奇妙な事には、己の記憶は決して空虚ではない。談話を忘れる癖に或る単語を覚えている。今一層適切に言えば、言語を忘れて音響を忘れないでいる。或る単語が幾つか耳の根に附いているようなのは、音響として附いているのである。
 記憶の今一つの内容は奥さんの挙動である。体の運動である。どうして立っておられたか、どうして腰を掛けられたか、又指の尖《さき》の余り細り過ぎているような手が、いかに動かずに、殆ど象徴的に膝の上に繋ぎ合わされていたか、その癖その同じ手が、いかに敏捷《びんしょう》に、女中の運んで来た紅茶を取り次いで渡したかというような事である。
 こういう音響や運動の記憶が、その順序の不確《ふたしか》な割に、その一々の部分がはっきりとして残っているのである。
 ここに可笑《おか》しい事がある。己は奥さんの運動を覚えているが、その静止しておられる状態に対しては記憶が頗《すこぶ》る朧気《おぼろげ》なのである。その美しい顔だけでも表情で覚えているので、形で覚えているのではない。その目だけでもそうである。国にいた時、或る爺《じじ》いが己に、牛の角と耳とは、どちらが上で、どちらが下に附いておりますかと問うた。それ位の事は己も知っていたから、直ぐに答えたら、爺いが云った。「旦那方でそれが直ぐにお分かりになるお方はめったにござりません」と云った。形の記憶は誰《たれ》も乏しいと見える。独り女の顔ばかりではない。
 そんなら奥さんの着物に就いて、どれだけの事を覚えているか。これがいよいよ覚束《おぼつか》ない。記憶は却て奥さんの詞をたどる。己が見るともなしに、奥さんの羽織の縞を見ていると、奥
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