のある光がさっと差して来た。坂を上って上野の一部を見ようか、それでは余り遅くなるかも知れないと、危ぶみながら佇立《ちょりゅう》している。
さっきから坂を降りて来るのが、純一が視野のはずれの方に映っていた、書生風の男がじき傍まで来たので、覚えず顔を見合せた。
「小泉じゃあないか」
先方から声を掛けた。
「瀬戸か。出し抜けに逢ったから、僕はびっくりした」
「君より僕の方が余《よ》っ程《ぽど》驚かなくちゃあならないのだ。何時《いつ》出て来たい」
「ゆうべ着いたのだ。やっぱり君は美術学校にいるのかね」
「うむ。今学校から来たのだ。モデルが病気だと云って出て来ないから、駒込《こまごめ》の友達の処へでも行《い》こうと思って出掛けた処だ」
「そんな自由な事が出来るのかね」
「中学とは違うよ」
純一は一本参ったと思った。瀬戸|速人《はやと》とはY市の中学で同級にいたのである。
「どこがどんな処だか、分からないから為方《しかた》がない」
純一は厭味気《いやみけ》なしに折れて出た。瀬戸も実は受持教授が展覧会事務所に往《い》っていないのを幸《さいわい》に、腹が痛いとか何とか云って、ごまかして学校を出て来たのだから、今度は自分の方で気の毒なような心持になった。そして理想主義の看板のような、純一の黒く澄んだ瞳《ひとみ》で、自分の顔の表情を見られるのが頗《すこぶ》る不愉快であった。
この時十七八の、不断着で買物にでも行《い》くというような、廂髪《ひさしがみ》の一寸|愛敬《あいきょう》のある娘が、袖が障るように二人の傍を通って、純一の顔を、気に入った心持を隠さずに現したような見方で見て行った。瀬戸はその娘の肉附の好《い》い体をじっと見て、慌てたように純一の顔に視線を移した。
「君はどこへ行《い》くのだい」
「路花《ろか》に逢おうと思って行った処が、十時でなけりゃあ起きないということだから、この辺《へん》をさっきからぶらぶらしている」
「大石路花か。なんでもひどく無愛想な奴だということだ。やっぱり君は小説家志願でいるのだね」
「どうなるか知れはしないよ」
「君は財産家だから、なんでも好きな事を遣《や》るが好《い》いさ。紹介でもあるのかい」
「うむ。君が東京へ出てから中学へ来た田中という先生があるのだ。校友会で心易くなって、僕の処へ遊びに来たのだ。その先生が大石の同窓だもんだから、紹介状を書いて貰った」
「そんなら好かろう。随分話のしにくい男だというから、ふいと行ったって駄目だろうと思ったのだ。もうそろそろ十時になるだろう。そこいらまで一しょに行《い》こう」
二人は又狭い横町を抜けて、幅の広い寂しい通を横切って、純一の一度渡った、小川に掛けた生木《なまき》の橋を渡って、千駄木下《せんだぎした》の大通に出た。菊見に行くらしい車が、大分続いて藍染橋《あいそめばし》の方から来る。瀬戸が先へ立って、ペンキ塗の杙《くい》にゐで井病院と仮名違《かなちがい》に書いて立ててある、西側の横町へ這入るので、純一は附いて行《ゆ》く。瀬戸が思い出したように問うた。
「どこにいるのだい」
「まだ日蔭町の宿屋にいる」
「それじゃあ居所が極《き》まったら知らせてくれ給えよ」
瀬戸は名刺を出して、動坂《どうざか》の下宿の番地を鉛筆で書いて渡した。
「僕はここにいる。君は路花の処へ入門するのかね。盛んな事を遣って盛んな事を書いているというじゃないか」
「君は読まないか」
「小説はめったに読まないよ」
二人は藪下へ出た。瀬戸が立ち留まった。
「僕はここで失敬するが、道は分かるかね」
「ここはさっき通った処だ」
「それじゃあ、いずれその内」
「左様《さよう》なら」
瀬戸は団子坂《だんござか》の方へ、純一は根津権現の方へ、ここで袂を分かった。
弐
二階の八畳である。東に向いている、西洋風の硝子窓《ガラスまど》二つから、形紙を張った向側《むこうがわ》の壁まで一ぱいに日が差している。この袖浦館という下宿は、支那《しな》学生なんぞを目当にして建てたものらしい。この部屋は近頃まで印度《インド》学生が二人住まって、籐《とう》の長椅子の上にごろごろしていたのである。その時|廉《やす》い羅氈《らせん》の敷いてあった床に、今は畳が敷いてあるが、南の窓の下には記念の長椅子が置いてある。
テエブルの足を切ったような大机が、東側の二つの窓の間の処に、少し壁から離して無造作に据えてある。何故《なぜ》窓の前に置かないのだと、友達がこの部屋の主人に問うたら、窓掛を引けば日が這入らない、引かなければ目《ま》ぶしいと云った。窓掛の白木綿で、主人が濡手《ぬれて》を拭いたのを、女中が見て亭主に告口をしたことがある。亭主が苦情を言いに来た処が、もう洗濯《せんだく》をしても好《い》い頃だと、あべこべに叱
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