出合うわけでしょう。ところが、ジダスカリアの連中なんぞは、皆大抵続けて来るから、それが殆ど一分の一になる」
「瀬戸も来ていますかしらん」
「いたようでしたよ」
「これ程立派な劇場ですから、foyer《フォアイエエ》とでも云ったような散歩|場《ば》も出来ているでしょうね」
「出来ていないのですよ。先《ま》ずこの廊下あたりがフォアイエエになっている。広い場所があっちにあるが、食堂になっているのです。日本人は歩いたり話したりするよりは、飲食をする方を好くから、食堂を広く取るようになるのでしょう」
 純一の左の方にいた令嬢二人が、手を繋《つな》ぎ合って、頻《しき》りに話しながら通って行った。その外|種々《いろいろ》な人の通る中で、大村がおりおりあれは誰《たれ》だと教えてくれるのである。
 それから純一は、大村と話しながら、食堂の入口まで歩いて行って、おもちゃ店《みせ》のあるあたりに暫《しばら》く立ち留まって、食堂に出入《でいり》する人を眺めていると、ベルが鳴った。
 純一が大村に別れて、階段を降りて、自分の席へ行《ゆ》くとき、腰掛の列の間の狭い道で人に押されていると、又parfum《パルフュウム》の香《か》がする。振り返って見て、坂井の奥さんの謎《なぞ》の目に出合った。
 雪の門口《かどぐち》の幕が開《あ》く。ヴィルトン夫人に娘を連れて行かれた、不遇の楽天詩人たる書記は、銀の鈴を鳴らして行く橇に跳飛《はねと》ばされて、足に怪我をしながらも、尚《なお》娘の前途を祝福して、寂しい家の燈《ともしび》の下《もと》に泣いている妻を慰めに帰って行く。道具が変って、丘陵の上になる。野心ある実業家たる老主人公が、平生心にえがいていた、大工場の幻を見て、雪のベンチの上に瞑目《めいもく》すると、優しい昔の情人と、反目の生活を共にした未亡人とが、屍《かばね》の上に握手して、幕は降りた。
 出口が込み合うからと思って、純一は暫く廊下に立ち留まって、舞台の方を見ていた。舞台では、一旦卸した幕を上げて、俳優が大詰の道具の中で、大詰の姿勢を取って、写真を写させている。
「左様なら。御本はいつでもお出《いで》になれば、御覧に入れます」
 純一が見返る暇に、坂井夫人の後姿は、出口の人込みの中にまぎれ入ってしまった。返事も出来なかったのである。純一は跡を見送りながら、ふいと思った。「どうも己《おれ》は女の人に物を言うのは、窮屈でならないが、なぜあの奥さんと話をするのを、少しも窮屈に感じなかったのだろう。それにあの奥さんは、妙な目の人だ。あの目の奥には何があるかしらん」
 帰るときに気を附けていたが、大村にも瀬戸にも逢はなかった。左隣にいたお嬢さん二人が頻りに車夫の名を呼んでいるのを見た。

     十

   純一が日記の断片
 十一月三十日。晴。毎日|几帳面《きちょうめん》に書く日記ででもあるように、天気を書くのも可笑しい。どうしても己には続いて日記を書くということが出来ない。こないだ大村を尋ねて行った時に、その話をしたら、「人間は種々《いろいろ》なものに縛られているから、自分で自分をまで縛らなくても好《い》いじゃないか」と云った。なる程、人間が生きていたと云って、何も齷齪《あくそく》として日記を附けて置かねばならないと云うものではあるまい。しかし日記に縛られずに何をするかが問題である。何の目的の為めに自己を解放するかが問題である。
 作る。製作する。神が万物を製作したように製作する。これが最初の考えであった。しかしそれが出来ない。「下宿の二階に転がっていて、何が書けるか」などという批評家の詞を見る度に、そんなら世界を周遊したら、誰にでもえらい作が出来るかと反問して遣《や》りたいと思う反抗が一面に起ると同時に、己はその下宿屋の二階もまだ知らないと思う怯懦《きょうだ》が他の一面に萌《きざ》す。丁度Titanos《チタノス》が岩石を砕いて、それを天に擲《なげう》とうとしているのを、傍に尖《とが》った帽子を被《かぶ》った一寸坊が見ていて、顔を蹙《しか》めて笑っているようなものである。
 そんならどうしたら好《い》いか。
 生きる。生活する。
 答は簡単である。しかしその内容は簡単どころではない。
 一体日本人は生きるということを知っているだろうか。小学校の門を潜《くぐ》ってからというものは、一しょう懸命にこの学校時代を駈け抜けようとする。その先きには生活があると思うのである。学校というものを離れて職業にあり附くと、その職業を為《な》し遂げてしまおうとする。その先きには生活があると思うのである。そしてその先には生活はないのである。
 現在は過去と未来との間に劃《かく》した一線である。この線の上に生活がなくては、生活はどこにもないのである。
 そこで己は何をしている。
 今日
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