ているのは、今夜演説に来る拊石である。老成らしい一人《いちにん》が云う。あれはとにかく芸術家として成功している。成功といっても一時世間を動かしたという側でいうのではない。文芸史上の意義でいうのである。それに学殖がある。短篇集なんぞの中には、西洋の事を書いて、西洋人が書いたとしきゃ思われないようなのがあると云う。そうすると、さっき声高に話していた男が、こう云う。学問や特別知識は何の価値もない。芸術家として成功しているとは、旨く人形を列《なら》べて、踊らせているような処を言うのではあるまいか。その成功が嫌《いや》だ。纏《まと》まっているのが嫌だ。人形を勝手に踊らせていて、エゴイストらしい自己が物蔭に隠れて、見物の面白がるのを冷笑しているように思われる。それをライフとアアトが別々になっているというのだと云う。こう云っている男は近眼目がねを掛けた痩男《やせおとこ》で、柄にない大きな声を出すのである。傍《そば》から遠慮げに喙《くちばし》を容れた男がある。
「それでも教員を罷《や》めたのなんぞは、生活を芸術に一致させようとしたのではなかろうか」
「分かるもんか」
 目金《めがね》の男は一言で排斥した。
 今まで黙っている一人の怜悧《れいり》らしい男が、遠慮げな男を顧みて、こう云った。
「しかし教員を罷めただけでも、鴎村なんぞのように、役人をしているのに比べて見ると、余程芸術家らしいかも知れないね」
 話題は拊石から鴎村に移った。
 純一は拊石の物などは、多少興味を持って読んだことがあるが、鴎村の物では、アンデルセンの飜訳《ほんやく》だけを見て、こんなつまらない作を、よくも暇潰《ひまつぶ》しに訳したものだと思ったきり、この人に対して何の興味をも持っていないから、会話に耳を傾けないで、独りで勝手な事を思っていた。
 会話はいよいよ栄《さか》えて、笑声《わらいごえ》が雑《まじ》って来る。
「厭味だと云われるのが気になると見えて、自分で厭味だと書いて、その書いたのを厭味だと云われているなんぞは、随分みじめだね」と、怜悧らしい男が云って、外の人と一しょになって笑ったのだけが、偶然純一の耳に止まった。
 純一はそれが耳に止まったので、それまで独《ひとり》で思っていた事の端緒を失って、ふいとこう思った。自分の世間から受けた評に就いてかれこれ云えば、馬鹿にせられるか、厭味と思われるかに極《き》まっている。そんな事を敢《あえ》てする人はおめでたいかも知れない。厭味なのかも知れない。それとも実際|無頓着《むとんちゃく》に自己を客観《かくかん》しているのかも知れない。それを心理的に判断することは、性格を知らないでは出来ない筈だと思った。
 瀬戸が座敷の奥の方から、「小泉君」と呼んだ。純一がその方を見ると、瀬戸はもう初めの所にはいない。隅の方に、子供の手習机を据えて、その上に書類を散らかしている男と、火鉢を隔てて、向き合っているのである。
 席を起ってそこへ行って見れば、机の上には一円札やら小さい銀貨やらが、書類の側に置いてある。純一はそこで七十銭の会費を払った。
「席料と弁当代だよ」瀬戸は純一にこう云って聞せながら、机を構えている男に、「今日は菓子は出ないのかい」と云った。
 まだ返辞をしないうちに、例の赭顔の女中が大きい盆に一人前《ひとりまえ》ずつに包んだ餅菓子を山盛にして持って来て銘々に配り始めた。
 配ってしまうと、大きい土瓶に番茶を入れたのを、所々に置いて行《ゆ》く。
 純一が受け取った菓子を手に持ったまま、会計をしている人の机の傍にいると、「おい、瀬戸」と呼び掛けられて、瀬戸は忙がしそうに立って行った。呼んだのは、初め這入ったとき瀬戸が話をしていた男である。髪を長く伸《のば》した、色の蒼い男である。又何か小声で熱心に話し出した。
 人が次第に殖えて来て、それが必ずこの机の傍に来るので、純一は元の席に帰った。余り上《あが》り口《ぐち》に近いので、自分の敷いていた座布団だけはまだ人に占領せられずにあったのである。そこで据わろうと思うと半分ばかり飲みさしてあった茶碗をひっくり返した。純一は少し慌てて、「これは失敬しました」と云って袂《たもと》からハンカチイフを出して拭いた。
「畳が驚くでしょう」
 こう云って茶碗の主は、純一が銀座のどこやらの店で、ふいと一番善いのをと云って買った、フランドルのバチストで拵《こしら》えたハンカチイフに目を注《つ》けている。この男は最初から柱に倚《よ》り掛かって、黙って人の話を聞きながら、折々純一の顔を見ていたのである。大学の制服の、襟にMの字の附いたのを着た、体格の立派な男である。
 一寸《ちょっと》調子の変った返事なので、畳よりは純一の方が驚いて顔を見ていると、「君も画家ですか」と云った。「いえ。そうではありません。まだ田
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