lの意見のように、「こんな頭に今物を考えさせたって駄目だ、どうにかして寐かす事だ」と云って促している。さて意識の提議する所に依ると、純一たるものはこの際行うべき或る事を決定して、それを段落にして、無理にも気を落ち着けて寐るに若《し》くはない。その或る事は巧緻《こうち》でなくても好《い》い。頗る粗大な、脳髄に余計な要求をしない事柄で好い。却《かえっ》て愈々《いよいよ》粗大なだけ愈々適当であるかも知れない。
 例之《たとえ》ば箱根を去るなんぞはどうだろう。それが好《い》い。それなら断然たる処置であって、その癖|温存《おんそん》的工夫を要する今の頭を苦めなくて済む。そして種々の不愉快を伝達している幾条の電線が一時に切断せられてしまうのである。
 箱根を去るのが実に名案である。これに限る。そうすれば、あの夫人に見せ附けて遣《や》ることが出来る。己だってそう馬鹿にせられてばかりはいないということを、見せ附けて遣ることが出来る。いやいや。そんな事は考えなくても好《い》い。夫人がなんと思おうと構うことは無い。とにかく箱根を去る。そしてこれを機会にして、根岸との交通を断《た》ってしまう。あの質《しち》のようになっているラシイヌの集《しゅう》を小包で送り返して遣る。早く谷中へ帰って、あれを郵便に出してしまいたい。そうしたらさぞさっぱりするだろう。
 こう思うと、純一の心は濁水に明礬《みょうばん》を入れたように、思いの外早く澄んで来た。その濁りと云うものの中《うち》には、種々の籠《こ》み入った、分析し難い物があるのを、かれこれの別なく、引きくるめて沈澱《ちんでん》させてしまったのである。これは夜の意識が仮初《かりそめ》に到達した安心の境《さかい》ではあるが、この境が幸に黒甜郷《こくてんきょう》の近所になっていたと見えて、べろべろの神さんの相変らず跳梁《ちょうりょう》しているにも拘らず、純一は頭を夜着の中に埋《うず》めて、寐入ってしまった。
 翌朝《よくあさ》純一は早く起きる積りでもいなかったが、夜明《よあけ》近く物音がして、人の話声が聞えたので、目を醒《さ》まして便所へ行った。そうすると廊下で早立ちの客に逢った。洋服を着た、どちらも四十恰好《しじゅうがっこう》の二人である。荷物を玄関に運ぶ宿の男を促しながら、外套《がいとう》の衿《えり》の底に縮めた首を傾け合って、忙《せわ》しそうに話をしている。極めて真面目で、極めて窮屈らしい態度である。純一は、なぜゆうべのような馬鹿げた騒ぎをするのだと云って見たい位であった。
 便所からの帰りに、ふと湯に入《い》ろうかと思って、共同浴室を覗《のぞ》いて見ると、誰《たれ》か一人這入っている。蒸気が立ち籠めて、好くは見えないが、湯壺の側に蹲《つくば》っている人の姿が女らしかった。そしてその姿が、人のけはいに驚かされて、急いで上がろうとするらしく思われた。純一は罪を犯したような気がして、そっとその場を逃げて自分の部屋に帰った。
 部屋には帰って見たが、早立ちの客の外は、まだ寐静まっている時なので、火鉢に火も入れてない。純一は又床に這入って、強いて寐ようとも思わずに、横になっていた。
 目がはっきり冴《さ》えて、もう寐られそうにもない。そしてゆうべ床に這入ってから考えた事が、糸で手繰り寄せられるように、次第に細かに心に浮んで来る。
 夜疲れた後《のち》に考えた事は、翌朝になって見れば、役に立たないと云う経験は、純一もこれまでしているのだが、ゆうべの決心は今頭が直ってから繰り返して見ても、やはり価値を減ぜないようである。啻《ただ》に価値を減ぜないばかりでは無い。明かな目で見れば見る程、大胆で、heroique[#一つ目の「e」は「´」付き]《エロイック》な処が現れて来るかとさえ思われる。今から溯《さかのぼ》って考えて見れば、ゆうべは頭が鈍くなっていたので、左顧右眄《さこゆうへん》することが少く、種々な思慮に掣肘《せいちゅう》せられずに、却って早くあんな決心に到着したかとも推《すい》せられるのである。
 純一はきょうきっと実行しようと自ら誓った。そして心の中にも体の中にも、これに邪魔をしそうな或る物が動き出さないのを見て、最終の勝利を羸《か》ち得たように思った。しかしこれは一の感情が力強く浮き出せば、他の感情が暫く影を歛《おさ》めるのであった。後《のち》になってから、純一は幾度か似寄った誘惑に遭って、似寄った奮闘を繰り返して、生物学上の出来事が潮の差引のように往来するものだと云うことを、次第に切実に覚知して、太田|錦城《きんじょう》と云う漢学の先生が、「天の風雨の如し」と原始的な譬喩《ひゆ》を下したのを面白く思った。
 さてきょう実行すると極めて、心が落ち着くと共に、潜っている温泉宿の布団の中へ、追憶やら感想やら希望やら過
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