フ上さんが吊銭を手に載せて、板縁《いたえん》に膝《ひざ》を衝いて待っていたのである。純一はそれに気が附いて、小さい銀貨に大きい銅貨の交ったのを慌てて受け取って、※[#「※」は「魚+王のなかに口が四つ」、第3水準1−94−55、194−16]皮《わにがわ》の蝦蟇口《がまぐち》にしまって店を出た。
 対岸に茂っている木々は、Carnaval《カルナヴァル》に仮装をして、脚ばかり出した群《むれ》のように、いつの間にか夕霧に包まれてしまって駅路《えきろ》の所々《ところどころ》にはぽつりぽつりと、水力電気の明りが附き始めた。
 純一はぼんやりして宿屋の方へ歩いている。或る分析し難い不愉快と、忘れていたのを急に思い出したような寂しさとが、頭を一ぱいに填《うず》めている。そしてその不愉快が嫉妬《しっと》ではないと云うことを、純一の意識は証明しようとするが、それがなかなかむずかしい。なぜと云うに、あの湯本細工の店で邂逅《かいこう》した時、もし坂井夫人が一人であったなら、この不愉快はあるまいと思うからである。純一の考はざっとこうである。とにかくあの岡村という大男の存在が、己《おれ》を刺戟《しげき》したには相違ない。画家の岡村と云えば、四条派の画《え》で名高い大家だということを、己も聞いている。どんな性質の人かは知らない。それを強いて知りたくもない。唯あの二人を並べて見たとき、なんだか夫婦のようだと思ったのが、慥かに己の感情を害した。そう思ったのは、決して僻目《ひがめ》ではない。知らぬ人の冷澹《れいたん》な目で見ても、同じように見えるに違いない。早い話が、あの店の上さんだって、若しあの二人に対して物を言うことになったら、旦那様奥様と云っただろう。己は何もあんな男を羨《うらや》みなんかしない。あの男の地位に身を置きたくはない。しかし癪《しゃく》に障る奴だ。こんな風に岡村を憎む念が起って、それと同時に坂井夫人に対しては暗黒な、しかも鋭い不平を感ずる。不義理な、約束に背いた女だとさえ云いたい。しかし夫人は己にどんな義理があるか。夫人の守らなくてはならない約束はどんな約束であるか。この問には答うべき詞が一つもないのである。どうしてもこの感じは嫉妬にまぎらわしいようである。
 そしてこの感じに寂しさが伴っている。厭な、厭な寂しさである。大村に別れた後《のち》に、東京で寂しいと思ったのなんぞは、まるで比べものにならない。小さい時、小学校で友達が数人首を集めて、何か※[#「※」は「口+耳」、第3水準1−14−94、196−3]《ささや》き合っていて、己がひとり遠くからそれを望見したとき、稍《やや》これに似た寂しさを感じたことがある。己はあの時十四位であった。丁度同じ学校に、一つ二つ年上で痩《やせ》ぎすの、背の高い、お勝という女生徒がいた。それが己を憎んで、動《やや》もすればこう云う境地に己を置いたのである。いつも首を集めて※[#「※」は「口+耳」、第3水準1−14−94、読みは「ささや」、196−6]き合う群の真中には蝶々髷《ちょうちょうまげ》だけ外の子供より高いお勝がいて、折々己の方を顧みる。何か非常な事を己に隠して遣っているらしい。その癖群に加わっている子供の一人に、跡からその時の話を聞いて見れば、なんでもない、己に聞せても差支《さしつかえ》ない事である。己はその度毎に、お勝の技倆《ぎりょう》に敬服して、好くも外の子供を糾合してあんなcomplot《コムプロオ》の影を幻出することだと思った。今己がこの事を思い出したのは、寂しさの感じから思い出したのであるが、つくづく考えて見れば、あの時の感じも寂しさばかりではなかったらしい。お勝は嫉妬の萌芽《ほうが》を己の心に植え附けたのではあるまいか。
 純一はこんな事を考えながら歩いていて、あぶなく柏屋の門口《かどぐち》を通り過ぎようとした。幸に内から声を掛けられたので、気が附いて戸口を這入って、腰を掛けたり立ったりした二三人の男が、帳場の番頭と話をしている、物騒がしい店を通り抜けて、自分の部屋の障子を明けた。女中がひとり背後《うしろ》から駈け抜けて、電燈の鍵《かぎ》を捩《ねじ》った。
     *     *     *
 夕食をしまって、純一は昼間見なかった分の新聞を取り上げて、引っ繰り返して見た。ふと「色糸」と題した六号活字の欄に、女の写真が出ているのを見ると、その首の下に横に「栄屋おちゃら」と書いてあった。印刷インクがぼってりとにじんでいて、半分隠れた顔ではあるが、確かに名刺をくれた柳橋の芸者である。
 記事はこうである。「栄屋の抱えおちゃら(十六)[#「(十六)」は縦中横組み]は半玉の時から男狂いの噂《うわさ》が高かったが、役者は宇佐衛門が贔屓《ひいき》で性懲《しょうこり》のない人形喰《にんぎょうくい》である
前へ 次へ
全71ページ中64ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング