ない語《ことば》なのである。極めて平易に書いた、極めて浅薄な、廉価なる喝采《かっさい》を俗人の読者に求めているらしい。タヴォオテの、あの巻頭の短篇を読んで見れば、多少隔靴の憾《うらみ》はあるとしても、前後の文意で、ニヒト・ドホがまるで分からない筈は無い。それが分かっているとすれば、この語《ことば》の説明に必然伴って来る具体的の例が、どんなものだということも分かっていなくてはならない。実際少しでも独逸が読めるとすれば、その位な事は分かっている筈である。それが分かっていて、なんの下心もなく、こんな質問をすることが出来る程、茂子さんはinnocente《アンノサント》なのだろうか。それでは、篁村翁《こうそんおう》にでも言わせれば、余りに「紫の矢絣《やがすり》過ぎている」それであの人のいつも作るような、殆ど暴露的な歌が作られようか。今の十六の娘にそんなのがあろうか。それともと考え掛けて、大村はそれから先きを考えることを憚《はばか》ったと云うのである。
茂子さんはそれきり来なくなった。大村が云うには、二人は素《も》と交互の好奇心から接近して見たのであるが、先方でもこっちでも、求むる所のものを得なかった。そこで恩もなく怨みもなく別れてしまった。勿論《もちろん》先方が近づいて来るにも遠ざかって行《ゆ》くにも、主動的にはなっていたが、こっちにも好奇心はあったから、あらわに動かなかった中《うち》に、迎合し誘導した責は免れないと、大村は笑いながら云った。
大村がこう云って、詞を切ったとき、二人は往来から引っ込めて立てた門のある、世尊院の前を歩いていた。寒そうな振《ふり》もせずに、一群の子供が、門前の空地で、鬼ごっこをしている。
「一体どんな性質の女ですか」と、突然純一が問うた。
「そうさね。歌を見ると、情に任せて動いているようで、逢って見ると、なかなか駈引のある女だ」
「妙ですね。どんな内の娘ですか」
「僕が問いもせず、向うが話しもしなかったのだが、後《のち》になって外《ほか》から聞けば、母親は京橋辺に住まって、吉田流の按摩《あんま》の看板を出していると云うことだった」
「なんだか少し気味が悪いようじゃありませんか」
「さあ。僕もそれを聞いたときは、不思議なようにも思い、又君の云う通り、気味の悪いようにも思ったね。それからそう思ってあの女の挙動を、記憶の中から喚び起して見ると、年は十六でも、もうあの時に或る過去を有していたらしいのだね。やはりその身元の話をした男が云ったのだが、茂子さんは初め女医になるのだと云って、日本医学校に這入って、男生ばかりの間に交って、随意科の独逸語を習っていたそうだ。その後《のち》何度学校を換えたか知れない。女子の学校では、英語と仏語の外は教えていないからでもあろうが、医学を罷《や》めたと云ってからも、男ばかりの私立学校を数えて廻っている。或る官立学校で独逸語を教えている教師の下宿に毎日通って、その教師と一しょに歩いていたのを見られたこともある。妙な女だと、その男も云っていた。とにかくproblematique[#一つ目の「e」は「´」付き]《プロブレマチック》な所のある女だね」
二人は肴町《さかなまち》の通りへ曲った。石屋の置場のある辺を通る時、大村が自分の下宿へ寄れと云って勧めたが、出発の用意は無いと云っても、手紙を二三本は是非書かなくてはならないと云うのを聞いて、純一は遠慮深くことわって、葬儀屋の角で袂を別った。
「Au revoir《オオ ルヴォアアル》!」の一声《いっせい》を残して、狭い横町を大股《おおまた》に歩み去る大村を、純一は暫く見送って、夕《ゆうべ》の薄衣《うすぎぬ》に次第に包まれて行《ゆ》く街を、追分の方へ出た。点燈会社の人足が、踏台を片手に提げて駈足で摩《す》れ違った。
二十二
箱根湯本の柏屋という温泉宿の小座舗《こざしき》に、純一が独り顔を蹙《しか》めて据わっている。
きょうは十二月三十一日なので、取引やら新年の設けやらの為めに、家《うち》のものは立ち騒いでいるが、客が少いから、純一のいる部屋へは、余り物音も聞えない。只早川の水の音がごうごうと鳴っているばかりである。伊藤公の書いた七絶《しちぜつ》の半折《はんせつ》を掛けた床の間の前に、革包《かばん》が開けてあって、その傍《そば》に仮綴のinoctavo《アノクタヴォ》版の洋書が二三冊、それから大版の横文《おうぶん》雑誌が一冊出して開いてある。縦にペエジを二つに割って印刷して、挿画《さしえ》がしてある。これはL'Illustration Theatrale[#「Theatrale」の一つ目の「e」は「´」付き、一つ目の「a」は「^」付き]《リルリュストラション テアトラアル》の来たのを、東京を立つ時、そのまま革包に入れて出た
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