《かんがえ》を考えている子供だとか、あらゆる不公平を無くしてしまう工夫をしている子供だとか云うのもいました。内生活に立ち入る様な未来もまるで示してないことはないのです。しかし僕にはそれが、唯雑然と並べてあるようで、それを結び附ける鎖が見附からないのです。矛盾が矛盾のままでいるのですね。どう云うものでしょう」
 純一は覚えず能弁になった。そして心の底には始終おちゃらの名刺が気になっている。大村がその本をよこせと云って、手を出すような事がなければ好《い》いがと、切に祈っているのである。
 幸に大村は手を出しそうにもしないで云った。「そうさね。矛盾が矛盾のままでいるような所は、その脚本の弱点だろうね。しかし一体哲学者というものは、人間の万有の最終問題から観察している。外から覗《のぞ》いている。ニイチェだって、この間話の出たワイニンゲルだってそうだ。そこで君の謂《い》う内界が等閑にせられる。平凡な日常の生活の背後に潜んでいる象徴的意義を体験する、小景を大観するという処が無い。そう云う処のある人は、Simmel《シムメル》なんぞのような人を除《の》けたらマアテルリンクしかあるまい。だから君が雑然と並べてあると云う、あの未来の国の子供の分担している為事《しごと》が、悉《ことごと》く解けて流れて、青い鳥の象徴の中に這入ってしまうように書きたかったには違いないが、それがそう行《ゆ》かなかったのでしょう」
 純一は大村の詞を聞いているうちに、名刺を発見せられはすまいかと思う心配が次第に薄らいで行って、それと同時に大村が青い鳥から拈出《ねんしゅつ》した問題に引き入れられて来た。
「ところが、どうも僕にはその日常生活というものが、平凡な前面だけ目に映じて為様《しよう》がないのです。そんな物はつまらないと思うのです。これがいつかもお話をした利己主義と関係しているのではないでしょうか」
「それは大《おおい》に関係していると思うね」
「そうですか。そんならあなたの考えている所を、遠慮なく僕に話して聞かせて貰いたいのですがねえ」純一は大きい涼しい目を耀《かがや》かして、大村の顔を仰ぎ見た。
 大村は手に持っていた紙巻の消えたのを、火鉢の灰に挿して語り出した。「そうだね。そんなら無遠慮に大風呂敷を広げるよ」大村は白い歯を露《あら》わして、ちょっと笑った。「一体青い鳥の幸福という奴は、煎《せん》じ詰めて見れば、内に安心立命を得て、外に十分の勢力を施すというより外有るまいね。昨今はそいつを漢学の道徳で行《い》こうなんという連中があるが、それなら修身斉家治国平天下で、解決は直ぐに附く。そこへ超越的な方面が加わって来ても、老荘を始として、仏教渡来以後の朱子学やら陽明学というようなものになるに過ぎない。西洋で言って見ると希臘《ギリシア》の倫理がPlaton《プラトン》あたりから超越的になって、基督《クリスト》教がその方面を極力開拓した。彼岸に立脚して、馬鹿に神々《こうごう》しくなってしまって、此岸《しがん》がお留守になった。樵夫《きこり》の家に飼ってある青い鳥は顧みられなくなって、余所に青い鳥を求めることになったのだね。僕の考では、仏教の遁世《とんせい》も基督教の遁世も同じ事になるのだ。さてこれからの思想の発展というものは、僕は西洋にしか無いと思う。Renaissance《ルネッサンス》という奴が東洋には無いね。あれが家の内の青い鳥をも見させてくれた。大胆な航海者が現れて、本当の世界の地図が出来る。天文も本当に分かる。科学が開ける。芸術の花が咲く。器械が次第に精巧になって、世界の総てが仏者の謂う器世界《きせいかい》ばかりになってしまった。殖産と資本とがあらゆる勢力を吸収してしまって、今度は彼岸がお留守になったね。その時ふいと目が醒めて、彼岸を覗いて見ようとしたのが、ショペンハウエルという変人だ。彼岸を望んで、此岸を顧みて見ると、万有の根本は盲目の意志になってしまう。それが生を肯定することの出来ない厭世《えんせい》主義だね。そこへニイチェが出て一転語を下した。なる程生というものは苦艱《くげん》を離れない。しかしそれを避けて逃げるのは卑怯《ひきょう》だ。苦艱|籠《ご》めに生を領略する工夫があるというのだ。What《ホワット》の問題をhow《ハウ》にしたのだね。どうにかしてこの生を有《あり》のままに領略しなくてはならない。ルソオのように、自然に帰れなどと云ったって、太古と現在との中間の記憶は有力な事実だから、それを抹殺《まっさつ》してしまうことは出来ない。日本で※[#「※」は「くさかんむり+言+爰」、第3水準1−91−40、163−9]園《かんえん》派の漢学や、契冲《けいちゅう》、真淵《まぶち》以下の国学を、ルネッサンスだなんと云うが、あれは唯復古で、再生ではない。そんなら
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