だよ」と、聞いていた一人が云った。「先輩だって、そんな議論を持ち出されたとき、己は芸者が呼んで貰いたいと云うわけには行《い》かない。議論を持ち出したものの偽善が、先輩を余儀なくして偽善をさせたのだ」
「それは穿《うが》って云えばそんなものかも知れないが、あらゆる美徳を偽善にしてしまっても困るね」と、今一人が云った。
「美徳なものか。芸者が心《しん》から厭なのなら、美徳かも知れない。又そうでなくても、好きな芸者の誘惑に真面目に打勝とうとしているのなら、それも美徳かも知れない。学生のいないところでは呼ぶ芸者を、いるところで呼ばないなんて、そんな美徳はないよ」
「しかし世間というものはそうしたもので、それを美徳としなくてはならないのではあるまいか」
「これはけしからん。それではまるで偽善の世界になってしまうね」
 議論の火の手は又|熾《さか》んになる。純一は面白がって聞いている。熾んにはなる。しかしそれは花火|綫香《せんこう》が熾んに燃えるようなものである。なぜというに、この言い争っている一群《ひとむれ》の中に、芸者が真に厭だとか、下《く》だらないとか思っているらしいものは一人もない。いずれも自分の好む所を暴露しようか、暴露すまいか、どの位まで暴露しようかなどという心持でしゃべっているに過ぎない。そこで偽善には相違ない。そんなら偽善呼ばわりをしている男はどうかというに、これも自分が真の善というものを持っているので、偽善を排斥するというのでもなんでもない。暴露主義である。浅薄な、随《したが》って価値のないCynisme《シニスム》であると、純一は思っている。
 とにかく塩田君を呼んで来《こ》ようじゃないかということになった。曽根は暫く方々見廻していたが、とうとう大臣の前に据わって辞儀をしている塩田を見附けて、連れに行った。
 塩田という名も、新聞や雑誌に度々出たことがあるので、純一は知っている。どんな人かと思って、曽根の連れて来るのを待っていると、想像したとはまるで違った男が来た。新しい道徳というものに、頼《よ》るべきものがない以上は、古い道徳に頼《よ》らなくてはならない、古《むかし》に復《かえ》るが即ち醒覚《せいかく》であると云っている人だから、容貌も道学先生らしく窮屈に出来ていて、それに幾分か世と忤《さか》っている、misanthrope《ミザントロオプ》らしい処がありそうに思ったのに、引っ張られて来た塩田は、やはり曽根と同じような、番頭らしい男である。曽根は小男なのに、塩田は背が高い。曽根は細面で、尖《とが》ったような顔をしているのに、塩田は下膨れの顔で、濃い頬髯《ほおひげ》を剃《そ》った迹《あと》が青い。しかしどちらも如才なさそうな様子をして、目にひどく融通の利きそうなironique《イロニック》な閃《ひらめ》きを持っている。「こんな事を言わなくては、世間が渡られない。それでお互にこんな事を言っている。実際はそうばかりは行《い》かない。それもお互に知っている」とでも云うような表情が、この男の断えず忙《いそが》しそうに動いている目の中に現れているのである。
「芸者かね。何も僕が絶待《ぜったい》的に拒絶したわけじゃあないのです。学生諸君も来られる席であって見れば、そんなものは呼ばない方が穏当だろうと云ったのですよ」塩田は最初から譲歩し掛かっている。
「そんなら君の、その不穏当だという感じを少し辛抱して貰えば好《い》いのだ」と、偽善嫌いの男が露骨に出た。
 相談は直ぐに纏《まと》まった。塩田は費用はどうするかと云い出して、一頓挫《いっとんざ》を来たしそうであったが、会費が余り窮屈には見積ってない処へ、侯爵家の寄附があったから、その心配はないと云って、曽根は席を起《た》った。
 四五人を隔てて据わっていた瀬戸が、つと純一の前に来た。そして小声で云った。
「僕のような学生という奴は随分侮辱せられているね。さっきからの議論を聞いただろう」
 純一が黙って微笑《ほほえ》んでいると、瀬戸は「君は学生ではないのだが」と言い足した。
「もう冷かすのはよし給え。知らない人ばかりの宴会だから、恩典に浴したくなかったのだ。僕はこんな会へ来たら、国の詞《ことば》でも聞かれるかと思ったら、皆|東京子《とうきょうっこ》になってしまっているね」
「そうばかりでもないよ。大臣の近所へ行って聞いていて見給え。ござりますのざに、アクセントのあるのなんぞが沢山聞かれるから」
「まあ、どうやらこうやら柳橋の芸者というものだけは、近くで拝見ができそうだ」
「なに。今頃出し抜《ぬけ》に掛けたって、ろくな芸者がいるものか。よくよくのお茶碾《ちゃひ》きでなくては」
「そういうものかね」
 こんな話をしている時、曽根が座敷の真中に立って、大声でこう云った。
「諸君。大臣閣下は外
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