おうへん》している。
 風景画なんぞは、どんなに美しい色を出して製版してあっても、お雪さんの注意を惹《ひ》かない。人物に対してでなくては興味を有せないのである。風景画の中の小さい点景人物を指して、「これはどうしているのでしょう」などと問う。そんな風で純一は画解きをさせられている。
 袖と袖と相触れる。何やらの化粧品の香《か》に交って、健康な女の皮膚の※[#「※」は「勹+二」、第3水準1−14−75、113−9]《におい》がする。どの画かを見て突然「まあ、綺麗《きれい》だこと」と云って、仰山に体をゆすった拍子に、腰のあたりが衝突して、純一は鈍い、弾力のある抵抗を感じた。
 それを感ずるや否や、純一は無意識に、殆ど反射的に坐を起って、大分遠くへ押し遣《や》られていた火鉢の傍《そば》へ行って、火箸《ひばし》を手に取って、「あ、火が消えそうになった、少しおこしましょうね」と云った。
「わたくしそんなに寒かないわ」極めて穏かな調子である。なぜ純一が坐を移したか、少しも感ぜないと見える。
「こんなに大きな帽子があるでしょうか」と云うのを、火をいじりながら覗《のぞ》いて見れば、雑誌のしまいの方にある婦人服の広告であった。
「そんなのが流行《はやり》だそうです。こっちへ来ている女にも、もうだいぶ大きいのを被《かぶ》ったのがありますよ」
 お雪さんは雑誌を見てしまった。そして両手で頬杖《ほおづえ》を衝いて、無遠慮に純一の顔を見ながら云った。
「わたくしあなたにお目に掛かったら、いろんな事をお話ししなくてはならないと思ったのですが、どうしたんでしょう、みんな忘れてしまってよ」
「病院のお話でしょう」
「ええ。それもあってよ」病院の話が始まった。お医者は一週間も二週間も先きの事を言っているのに、妹は這入った日から、毎日内へ帰ることばかし云っているのである。一日毎に新しく望《のぞみ》を属《ぞく》して、一日毎にその望が空《むな》しくなるのである。それが可哀そうでならなかったと、お雪さんはさも深く感じたらしく話した。それから見舞に行って帰りそうにすると泣くので、とうとう寐入《ねい》るまでいたことやら、妹がなぜ直ぐに馴染んだかと不思議に思った看護婦が、やはり長く附き合って見たら、一番|好《い》い人であったことやら、なんとか云う太ったお医者が廻診の時にお雪さんが居合わすと、きっと頬っぺたを衝っ衝いたことやら、純一はいろいろな事を聞せられた。
 話を聞きながら、純一はお雪さんの顔を見ている。譬《たと》えば微《かす》かな風が径尺の水盤の上を渡るように、この愛くるしい顔には、絶間なく小さい表情の波が立っている。お雪さんの遊びに来たことは、これまで何度だか知らないが、純一はいつもこの娘の顔を見るよりは、却ってこの娘に顔を見られていた。それがきょう始て向うの顔をつくづく見ているのである。
 そして純一はこう云うことに気が附いた。お雪さんは自分を見られることを意識しているということに気が附いた。それは当り前の事であるのに、純一の為めには、そう思った刹那に、大いなる発見をしたように感ぜられたのである。なぜかというに、この娘が人の見るに任す心持は、同時に人の為《な》すに任す心持だと思ったからである。人の為すに任すと云っては、まだ十分でない、人の為すを待つ、人の為すを促すと云っても好さそうである。しかし我一歩を進めたら、彼一歩を迎えるだろうか。それとも一歩を退《しりぞ》くだろうか。それとも守勢《しゅぜい》を取って踏み応えるであろうか。それは我には分からない。又多分彼にも分からないのであろう。とにかく彼には強い智識欲がある。それが彼をして待つような促すような態度に出《い》でしむるのである。
 純一はこう思うと同時に、この娘を或る破砕し易い物、こわれ物、危殆《きたい》なる物として、これに保護を加えなくてはならないように感じた。今の自分の位置にいるものが自分でなかったら、お雪さんの危《あやう》いことは実に甚だしいと思ったのである。そしてお雪さんがこの間《ま》に這入った時から、自分の身の内に漂っていた、不安なような、衝動的なような感じが、払い尽されたように消え失せてしまった。
 火鉢の灰を掻《か》きならしている純一が、こんな風に頓《とみ》に感じた冷却は、不思議にもお雪さんに通じた。夢の中でする事が、抑制を受けない為めに、自在を得ているようなものである。そして素直な娘の事であるから、残惜しいという感じに継いで、すぐに諦《あきら》めの感じが起る。
「またこん度遊びに来ましょうね」何か悪い事でもしたのをあやまるように云って、坐を立った。
「ええ。お出《いで》なさいよ」純一は償《つぐの》わずに置く負債があるような心持をして、常よりは優しい声で云って、重たげに揺らぐお下げの後姿を見送っていた。
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