モニカや、おもちやの胡弓や、舟底の台に載せた馬なんぞを、菓子で拵へたのを買ふのである。
「あの影はそれを買ひに往く父親《てゝおや》や母親だらう」と思つたので、ドルフは重荷を卸したやうな気がして、太い息を衝《つ》いた。
それでも霧の中の瓦斯燈が葬の行列の蝋燭のやうに見えることは、前の通である。その上其火が動き出す。波止場の方で、集まつたり、散つたり、往き違つたり、入り乱れたりする。丸で大きい蛾が飛んでゐるやうである。「どうも己は気が変になつたのぢやないか知らん。あの蛾《てふちよ》は、あれは己の頭にゐるのだらう」と、ドルフは思つた。
忽ち人声が耳に入つた。岸近く飛びかふのは松明《たいまつ》である。その赤い焔を風が赤旗のやうにゆるがせてゐる。ちらつく火影《ほかげ》にすかして、ドルフが岸を見ると、大勢の人が慌だしげな様子をして岸に立つて何かの合図をしてゐる。中には真つ黒に流れてゐる河水を、俯して見てゐるものもある。街燈は動きはしなかつたが、人の馳せ違ふのと、松明が入り乱れて見えるのとで、街燈も動くやうに見えたのだと、ドルフは悟つた。
忽ち叫んだものがある。「ドルフ・イエツフエルスを呼んで来い。あいつでなくては此|為事《しごと》は所詮出来ない。」
「丁度好い。ドルフが来た。」ぢき傍で一人の若者がかう云つた。
ドルフは此の時やつと集まつてゐる人達を見定めることが出来た。皆友達である。船頭仲間である。劇《はげし》く手真似をして叫びかはす群が忽ちドルフの周囲《まはり》へ寄つて来た。中に干魚《ひもの》のやうな皺の寄つた爺いさんがゐて、ドルフの肩に手を置いた。「ドルフ。一人沈みさうになつてゐるのだ。頼む。早く着物を脱いでくれ。」
ドルフは俯して暗い水を見た。岸辺の松明を見た。仰いで頭の上にかぶさり掛かつてゐる黒い夜を見た。それから周囲に集まつて居る友達を見た。「済まないが、けふはこらへてくれ。女房のリイケが産をし掛けてゐる。生憎《あいにく》己の命が己の物でなくなつてゐる。」
「さう云ふな。おぬしの外には頼む人が無い。」かう云ひさして爺いさんは水の滴る自分の着物を指さした。「己も子供が三人ある。それでももう二度|潜《もぐ》つて見た。どうも己の手にはをへねえ。」
ドルフは周囲の友達をずらつと見廻した。「いく地がないなあ。一人も助けにはいるものはないのかい。」
爺いさんが又ドルフに薄《せま》つた。「ドルフ。お主がはいらんと云へば、死ぬるまでだ、己がもう一遍はいる。」
川へ松明を向けてゐる人達が叫んだ。「や。又あそこに浮いた。手足が見えた。早くしなくちや。」
ドルフはいきなり上着をかなぐり棄てた。「好し。己がはいる。その代り誰か一人急いでプツゼル婆あさんの所へ往つて、グルデンフイツシユの桟橋迄あれを案内してくれ。」それから空中に十字を切つて、歯の間で唱へた。「人間のために十字架に死なれた主よ。どうぞ憐をお垂下さい。」
ドルフは裸で岸に向つて駆け出した。群集《ぐんじゆ》はあぶなさに息を屏《つ》めてゐる。ドルフは瞳を定めて河を見卸した。松明が血を滴らせてゐる陰険な急流である。其時ドルフは「死」と目を見合せたやうな気がした。渦巻き泡立つてゐる水は、譬へば大きな鮫が尾で鞭打つてゐるやうである。
「それ又浮いた」と人々が叫んだ。
「リイケ。勘辨してくれ。」どん底がさつと裂けた。流は牢獄の扉のやうに、ドルフの背の上に鎖された。
群集の中から三人の男が影のやうに舟にすべり込んで纜《ともづな》を解いた。徐《しづ》かに※[#「左は舟、右は虜」、第4水準2−85−82、154−上−15]を操つて、松明の火を波に障《さは》るやうに低く持つて漕いでゐる。
能く人を殺すエスコオ川は、永遠なる「時」の瀬の如くに、滔々として流れてゐる。
――――――――――――
ドルフは水面に二度浮かんで、二度共又潜つた。夜の不慥な影の中に、ドルフの腕が動き、其顔が蒼ざめてゐるのが見えた。
ドルフは氷のやうな水層を蹴て、河のどん底まで沈んで行つたのである。忽ち水に住む霊怪の陰険な係蹄《わな》に掛かつたかと思ふやうに、ドルフは両脚の自由を礙《さまた》げられた。溺死し掛かつてゐる男が両脚に抱き附いたのである。これを振り放さなくては、自分も其男も助からないことが、ドルフに分かつた。両脚は締金《しめがね》で締められたやうになつてゐる。二人の間には激しい格闘が始まつた。そして二つの体は次第に河床の泥に埋まつて行く。死を争ふ怨敵のやうに、二人は打ち合ひ咬み合ひ、引つ掻き合つて、膚《はだへ》を破り血を流す。とう/\ドルフが上になつた。絡み附いてゐた男の手が弛んだ。そして活動の力を失つた体が、ドルフの傍を水のまに/\漂ふことになつた。ドルフもがつかりした。そして危険な弛緩状態に
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