て出たが、途中で病んで、十二月十五日に歿した。年は六十三であった。抽斎の生れた文化二年には、重兵衛は七歳の童《わらべ》であったはずである。
重兵衛の子孫はどうなったかわからない。数年前に大槻如電《おおつきにょでん》さんが浅草|北清島町《きたきよじまちょう》報恩寺内専念寺にある重兵衛の墓に詣《もう》でて、忌日《きにち》に墓に来るものは河竹新七《かわたけしんしち》一人だということを寺僧に聞いた。河竹にその縁故を問うたら、自分が黙阿弥《もくあみ》の門人になったのは、豊芥子の紹介によったからだと答えたそうである。
以上抽斎の友で年長者であったものを数えると、学者に抽斎の生れた年に十六歳であった安積艮斎《あさかごんさい》、十歳であった小島成斎、九歳であった岡本况斎、八歳であった海保漁村がある。医者に当時十一歳であった多紀※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭《たきさいてい》、二歳であった伊沢|榛軒《しんけん》がある。その他画家文晁は四十三歳、劇通寿阿弥は三十七歳、豊芥子は七歳であった。
抽斎が始《はじめ》て市野迷庵の門に入《い》ったのは文化六年で、師は四十五歳、弟子《
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