、就中《なかんずく》※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》、伊沢蘭軒の長子|榛軒《しんけん》がいる。それから芸術家|及《および》芸術批評家に谷文晁《たにぶんちょう》、長島五郎作《ながしまごろさく》、石塚重兵衛《いしづかじゅうべえ》がいる。これらの人は皆社会の諸方面にいて、抽斎の世に出《い》づるを待ち受けていたようなものである。

   その十三

 他年抽斎の師たり、年長の友たるべき人々の中《うち》には、現に普《あまね》く世に知れわたっているものが少くない。それゆえわたくしはここに一々その伝記を挿《さしはさ》もうとは思わない。ただ抽斎の誕生を語るに当って、これをしてその天職を尽さしむるに与《あずか》って力ある長者のルヴュウをして見たいというに過ぎない。
 市野迷庵、名を光彦《こうげん》、字を俊卿《しゅんけい》また子邦《しほう》といい、初め※[#「竹かんむり/員」、第4水準2−83−63]窓《うんそう》、後迷庵と号した。その他|酔堂《すいどう》、不忍池漁《ふにんちぎょ》等の別号がある。抽斎の父允成が酔堂説《すいどうのせつ》を作ったのが、『容安室文稿《よう
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