き》九年に登勢が二十九歳で女《むすめ》千代《ちよ》を生んだ。千代は絶えなんとする渋江氏の血統を僅に繋《つな》ぐべき子で、あまつさえ聡慧《そうけい》なので、父母はこれを一粒種《ひとつぶだね》と称して鍾愛《しょうあい》していると、十九歳になった安永六年の五月三日に、辞世の歌を詠んで死んだ。本皓が五十歳、登勢が四十七歳の時である。本皓には庶子があって、名を令図《れいと》といったが、渋江氏を続《つ》ぐには特に学芸に長じた人が欲しいというので、本皓は令図を同藩の医|小野道秀《おのどうしゅう》の許《もと》へ養子に遣《や》って、別に継嗣《けいし》を求めた。
この時|根津《ねづ》に茗荷屋《みょうがや》という旅店《りょてん》があった。その主人|稲垣清蔵《いながきせいぞう》は鳥羽《とば》稲垣家の重臣で、君《きみ》を諌《いさ》めて旨《むね》に忤《さか》い、遁《のが》れて商人となったのである。清蔵に明和元年五月十二日生れの嫡男|専之助《せんのすけ》というのがあって、六歳にして詩賦《しふ》を善くした。本皓がこれを聞いて養子に所望すると、清蔵は子を士籍に復せしむることを願っていたので、快《こころよ》く許諾した。
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