であっただろう。優は少し早く東京に入り、ほどなく東京を距《さ》ること遠からぬ浦和に往って官吏をしていたが、必ずしも二弟に先だって斬髪したともいいがたい。紫の紐《ひも》を以て髻《もとどり》を結《ゆ》うのが、当時の官吏の頭飾《とうしょく》で、優が何時までその髻を愛惜《あいじゃく》したかわからない。人はあるいは抽斎の子供が何時斬髪したかを問うことを須《もち》いぬというかも知れない。しかし明治の初《はじめ》に男子が髪を斬ったのは、独逸《ドイツ》十八世紀のツォップフが前に断たれ、清朝《しんちょう》の辮髪《べんぱつ》が後《のち》に断たれたと同じく、風俗の大変遷である。然るに後の史家はその年月を知るに苦《くるし》むかも知れない。わたくしの如きは自己の髪を斬った年を記《き》していない。保さんの日記の一条を此《ここ》に採録する所以《ゆえん》である。
 この年十二月二十二日に、本所二つ目の弘前藩邸が廃せられたために、保は兄山田脩が本所|割下水《わりげすい》の家に同居した。
 海保|竹逕《ちくけい》の妻、漁村の女《むすめ》がこの年十月二十五日に歿した。
 抽斎歿後の第十四年は明治五年である。一月《いちげつ》
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