塾に連れて往った。塾は本郷弓町にあった。
この塾の月俸は三分二朱であった。貞固のいうには、これは聊《いささか》の金ではあるが、矢島氏の禄を受くる周禎が当然支出すべきもので、また優善の修行中その妻鉄をも周禎があずかるが好《い》いといった。そしてこの二件を周禎に交渉した。周禎はひどく迷惑らしい答をしたが、後に渋りながらも承諾した。想うに上原は周禎を矢島氏の嗣となすに当って、株の売渡《うりわたし》のような形式を用いたのであろう。上原は渋江氏に対して余り同情を有せぬ人で、優善には屁《へ》の糟《かす》という渾名《あだな》をさえ附けていたそうである。
山田の塾には当時門人十九人が寄宿していたが、いまだ幾《いくばく》もあらぬに梅林松弥《うめばやしまつや》というものと優善とが塾頭にせられた。梅林は初め抽斎に学び、後《のち》此《ここ》に来たもので、維新後名を潔《けつ》と改め、明治二十一年一月十四日に陸軍一等軍医を以て終った。
比良野氏ではこの年同藩の物頭《ものがしら》二百石|稲葉丹下《いなばたんげ》の次男|房之助《ふさのすけ》を迎えて養子とした。これは貞固が既に五十歳になったのに、妻かなが子を生ま
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